ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第8章 25年遅れの初演とその評価

 
           Kondrashin

交響曲第4番の初演を指揮したキリル・コンドラシン


25年遅れの初演
 紛失した交響曲第4番の譜面が復元されるまでの25年間、ショスタコーヴィチはこの曲についてどう思っていたのでしょうか。そして、その曲を実際に初めて聴いた時はどんな反応を示したのでしょうか。イサーク・グリークマンは次のように書いています。

 「1956年、ショスタコーヴィチは交響曲第4番の欠点について書いています。彼によれば、それは『誇大妄想』に陥っていたとのことです。しかし、わずか5年後の1961年12月30日、モスクワ音楽院大ホールでキリル・コンドラシンの指揮により初演が行われました。私はコンサート中、ドミトリー・ドミトリエヴィチの隣に座っていましたが、導入部の圧倒的な音楽がホールに響き渡った時、彼の心臓が激しく鼓動しているのが聞こえてくるようでした。彼は抑えきれない不安に囚われており、その不安は見事なコーダの始まりでようやく和らぎました。

 コンサートの大成功の後、私たちは彼の自宅を訪ねました。聴いたばかりの新鮮な印象を受けたディミトリ・ドミトリエヴィチは、『私の交響曲第4番は、多くの点で最近の作品よりもはるかに優れているように思います』と私に言いました。驚くべき告白です!この発言には誇張の要素が含まれていましたが、それでも、過去25年間不当に忘れ去られてきた作品を守りたいという彼の衝動に駆られたものでした。この長い期間、作曲家自身はこの作品を冷たく客観的な目で見ていました。しかし、実際に音となって命を吹き込まれたとき、彼はこの失われた子供の圧倒的な音楽的力に完全に共感したのです( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.144及び “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface p.xxiii-iv )。」

 このショスタコーヴィチの『誇大妄想』という発言について、2012年11月15日付けの『ワシントンポスト』の記事には、この『誇大妄想』の言葉の前後に、ショスタコーヴィチは「形式に関して言えば、非常に不完全で冗長な作品であり、いわば『誇大妄想』に陥っていると言えるでしょう。しかしながら、楽譜には気に入っている部分もいくつかあります。」と言ったとしています( “National Symphony, Vasily Petrenko tackle Shostakovich’s Fourth Symphony” )。しかし、ショスタコーヴィチの息子で指揮者のマクシム・ショスタコーヴィチは、苛立ちを交えてこう答えたとしています。

 「いや、いや、それは悪い噂だ。真実ではない…。キリル・コンドラシンが演奏してくれた時、彼はとても喜んでいました。本当に嬉しかったのです。素晴らしい交響曲です。彼の交響曲の中でも最高傑作のひとつです。1小節でも削れるところがあれば教えてください。この交響曲にはカットすべき小節はひとつも見つけられないのです。なぜなら彼は形式と全体の構成に長けているのですから。第4交響曲の構成は素晴らしい! 重要なのは、彼の壮大な構想には壮大な交響曲が必要だったということなのです。つまりすべてがうまく整っているのです( Shostakovichiana by Ian MacDonald )。

 実際、ショスタコーヴィチは右手の不調で入院していた時にグリークマンへ送った1958年9月19日の手紙では「この間、自作のオペラ『マクベス夫人』や、交響曲第4番のことばかり考えています。どんなにかこの耳で聴きたいものか、そう思っては心の耳でこれらの曲を通しで演奏しています。(中略)交響曲第4番の演奏は成功するものと確信しています(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.280)」と述べています。

 25年もの間、ショスタコーヴィチは演奏できなかった交響曲第4番のことは、忘れてはいなかったのであり、いつか演奏されることを望んでいたと考えられます。あの独裁者スターリンは1953年には亡くなっていますので、その可能性は高まっていたのです。そんな中、1960年に入ってパート譜が発見され、それを総譜に復元する作業が行われました。さらに同じ年、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督グリンベルグが首席指揮者になったばかりのキリル・コンドラシンに「まだ一度も演奏が行なわれていないショスタコーヴィチの交響曲第4番を取り上げてみないか」と話を持ちかけたのでした。その際、キリル・コンドラシンは次のように証言しています。

 「戦時中、暖房のためにあらゆるものが燃やされたため、楽譜は失われたと思われていました。幸いにも復元が可能であることが分かり、ショスタコーヴィチに演奏に興味があるかどうか尋ねました。(復元させた楽譜には多数の誤りがあったため、作業は複雑になり、彼の助言が必要でした。)ショスタコーヴィチは楽譜を受け取り、数日間じっくりと検討した後、交響曲に満足しており、私に演奏してもらっても構わないと申し出てくれました( Shostakovichiana by Ian MacDonald )。」

 ソヴィエト音楽専門の音楽学者ポーリーン・フェアクロウもこの時のコンドラシンについてこう述べています。

 「1961年の初演に先立ち、ショスタコーヴィチはスコアを見直した際に一音も変更したくないと感じました。コンドラシンは、ショスタコーヴィチが音符の多くを忘れていると言って、チェックするために自分用の楽譜のコピーを求めてきた時の様子をこう描写しています。翌日、彼は私に電話をかけてきました。『キリル・ペトロヴィッチさん、この交響曲を演奏していただければ大変嬉しいです。変更する必要はありません。この作品は私にとって、そのままであることがとても大切なのです( "A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough, xvii )』。」

 また、コンドラシンのリハーサルとそれに同席したショスタコーヴィチの様子について、イアン・マクドナルドは次のように書いています。

 「マクシムの見解が示唆するように、1962 年に復元された第 4 交響曲の譜面に加えたショスタコーヴィチの修正はごくわずかでした。コンドラシンは、リハーサル中にショスタコーヴィチに何度も質問をしたと記録しています。何か問題が起きると、彼は少し間を置いてオーケストラと指揮者に許しを請い、自分のせいだと責めました。彼の指摘はすべて非常に正確でした。『あのピアノは私が書いたのだが、メゾフォルテの方が良い音になるだろう』といった具合でした。こうしたニュアンスがすべて公式版に反映されたのでした。

 ショスタコーヴィチはプレッシャーの中で、時折自分自身と作品への自信を失っていたことで知られています。しかし1962年の交響曲第4番に対する彼の評価は非常に高く、1936年後半に彼がこの作品への信頼を失ってそれが撤回につながったという主張は表向き説得力を失います。彼がその交響曲が当時の状況でどのように受け止められるかを恐れていた、という方が妥当でしょう。この作品は、社会主義リアリストの独裁下でソヴィエトの交響曲に求められたものと形式的に相容れないだけでなく、『ソヴィエトの現実』そのものとも明らかに矛盾していたのです。『交響曲第4番を聴くと、その時代の息吹を感じる』とマクシム・ショスタコーヴィチは言いました。1989年にルイ・ブロワにインタビューされたマクシムは、この点についてより明確に、『交響曲第4番をソヴィエト政権の政策とその終末を描写することに捧げられた作品である』と語りました( Shostakovichiana by Ian MacDonald )。」

 1961年12月30日、モスクワ音楽院大ホールにおいてキリル・コンドラシン指揮するモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団によって交響曲第4番が初演されました。実に25年もの間、蔵入りとなっていた不運の第4番がここにきてようやく日の目を見ることができたのでした。しかも失われた自筆譜の復元作業というオマケ付きで。


交響曲第4番の初演当時の評価
 
この曲のソヴィエト国内と海外での演奏は次のように行なわれています。

・1961年12月30日:世界初演
      キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
・1962年5月13日:チェコ初演(ソヴィエト国外初演)
      カレル・アンチェル指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
・1962年9月7日:英国初演(西側初演)
      ロジェストヴェンスキー指揮フィルハーモニア管弦楽団
・1963年2月15日:米国初演
      オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団
・1963年2月17日:西側初録、同上
・1963年2月26日:ドイツ初演
      キリル・コンドラシン指揮シュターツカペレ・ドレスデン
・1986年7月20日:日本初演
      芥川也寸志指揮新交響楽団


 ショスタコーヴィチの家族の友人であるフローラ・リトヴィノヴァは、1961年に初めて交響曲第4番を聞いたとき、日記に次のように記しています。

 「初めて聴いた時、あまりの強烈さに打ちのめされる程の印象を受けました。ドミトリー・ドミトリエヴィチの最近の作品には、なぜこのような衝動性、躍動感、リズムと色彩のコントラスト、優しさと尖鋭さといった要素が欠けているのでしょう。もし彼の魂を歪めた『歴史的法令』がなければ、彼はどれほど違う道を歩み、どれほど違った人生を送っていただろうかと、思わず考えてしまいました( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.389-390)。」

 この『歴史的法令』とは、1948年2月10 日に発布された全ソヴィエト共産党中央委員会の決議「ムラデリ作曲のオペラ『大いなる友情』について」のことで、音楽における「形式主義」を非難し、社会主義リアリズムを強制するもので、いわゆる『ジダーノフ批判』の一環をなすものでした(後註7)。この法令発布の直後、ショスタコーヴィチの交響曲第6番、第8番、第9番を含むいくつかの作品が演奏禁止となりました。リトヴィノヴァはさらに、1970年か1971年に彼と最後に会ったときの彼の返答を次のように回想しています。

 「交響曲第4番を作曲していた時に追求していた路線は、間違いなく私の作品においてより力強く、より鋭敏なものになっていたでしょう。もっと輝きを放ち、もっと皮肉を効かせ、カモフラージュに頼ることなく自分の考えを率直に表現できたでしょう。もっと純粋な音楽を書けたでしょう。しかし、私は自分の書いたものを恥じていません。自分の作品はどれも気に入っています(“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.481-482)。」

 フローラ・リトヴィノヴァは、戦争中ショスタコーヴィチがレニングラードからクイヴィシュフに疎開した際の隣人で、マーラーの『大地の歌』のレコードをショスタコーヴィチに聴かせてあげたことでも知られている人物です。『マクベス夫人』や交響曲第5番の演奏会にも顔を出し、ショスタコーヴィチが自宅で知人たちに初めて交響曲第7番をピアノで弾いて聴かせた時にも立ち会っているだけあって、この曲と「最近の作品」の違いの本質を見事に見抜いているところはさすがです。

 英国エディンバラ音楽祭のディレクターであったヘアウッド卿は、芸術は鉄のカーテンを突き破るべきだと決意し、ソヴィエトの作曲家ショスタコーヴィチを招いて彼の作品を音楽祭で取り上げることにしました。ショスタコーヴィチは付き添いの随員と共に会場に入り、ムスチラフ・ロストロポーヴィチが弾くチェロソナタを聴き、アッシャーホールでロシア国外で初めて演奏される交響曲第4番を鑑賞しました(1962年9月7日)。その時の指揮者はゲンナジー・ロジェストヴェンスキーでした。

 米国初演としては、フィラデルフィアが名乗りを上げていますが(西側発録音も)、ニューヨーク初演(と思われる)演奏会の新聞評をWebで読むことができます。

 「ソヴィエト出身の指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーは、今週末のコンサートでニューヨーク・フィルハーモニックにデビューした。(中略)ショスタコーヴィチはここではほとんど知られていないが、この作品は実に奇妙であり、しかし非常に並外れた作品である。これは作曲家がモダニズムの時代にあった30年代半ばに作曲した作品であり、スターリン主義的な趣向にそぐわないとして批判され始めた時期の産物である。今日でも、実験的、あるいは探究的な響きがする。

 3つの楽章で1時間を占める。その巨大さ、特大オーケストラの使用、そしていくつかのアイデアにおいてマーラー的である。ほぼ同等の長さで一見すると形式のない両端の楽章、一見すると形がないように見えるが、比較的短く厳密に構成されたセクションをひとくくりにしている。最も興味深いのは、夢のような、いや悪夢とも言える意識の流れである。ひとつの音楽概念が、ごくわずかなあるいは関連性の薄い例を除いて、反復や通常の展開を経ることなく、次々と流れていく。しかし、夢のように絶えず変化するパターンから逃れることはできない。意図的であろうとなかろうと。

 奇妙な要素、バス・チューバに対するピッコロの演奏、繰り返されるクライマックス(第1楽章は非常に大きな音)、不釣り合いな文脈でのマーラー風のワルツのリズムの使用、時折強引なリズム、唐突で角張った、あるいは美しく弧を描くテーマなど、これらはすべて、別の和声言語で表現されていたときでさえ、ショスタコーヴィチの作品の特徴である。そして、そのマーラー的な傾向にもかかわらず、この交響曲はその響きが非常にロシア的で野蛮な壮麗さに満ちているのである( "Rozhdestvensky Conducts Shostakovich's Fourth" The New York Times Feb. 25, 1979 by Raymond Ericson)。」

 なお、この演奏会で配布されたプログラム・ノートにはこのように書かれていました。

 「ボリス・シュワルツによると、ショスタコーヴィチの交響曲第4番は、意図的に形式を否定し、『音楽の自由な流れ』を主張しています。しかし作曲後、ショスタコーヴィチは『確固とした構造のない交響曲は成立しない』と判断しました。ショスタコーヴィチはこの認識に従い、そして間違いなく政治的圧力の高まりにも応えて、1937年に形式的には伝統的であるけれど計算高く大衆向けの交響曲第5番を作曲したのでした(New York Philharmonic Digital Archives, 1979 Feb 22, 23, 24, 27 / Subscription Season / Rozhdestvensky)。」

 この解説文はまだグリークマンによるリハーサルが中止になった時の様子を描いた書籍(第5章参照)が出版されていない時期に書かれたものです。その後、ニューヨーク・フィルハーモニックがこの曲の3回目の公演を行なった際のプログラム・ノートにはこのグリークマンによる長文の引用が掲載されています(2007年12月)。





*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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