マーラー初体験は9番

 
 1979年5月11日、大学3年生のとき、浅草公会堂でマーラーの交響曲第9番を演奏したのが私の初めてのマーラーの演奏体験となりました。当時の私は大学のオーケストラに所属してヴァイオリン・パートの末席でちょろちょろ弾いていた頃でして、マーラーの9番を演奏するため都内の大学から有志を募集しているという話が舞い込んできた際に躊躇せずに手を挙げたのでした。弾ける見込みはないのに何故そうしたのか記憶がない(気になる女の子が応募したからでもなく・・・)のが残念なところですが、もう1人応募したヴァイオリンの後輩(2年後コンマスになった名手)とふたりで参加しました(今思えば冷や汗もの)。

 このオーケストラは、日頃ジョイントで演奏していた某医科大学と某女子大を中心にしてこの曲を演奏するために様々な大学からメンバーが集まったものでした。今でこそマーラーの交響曲はアマチュア・オーケストラでは定番のプログラムであり、大学の現役オケでも9番を演奏することすら稀なことではないのですが(毎年演奏する大学もありますね)、40年前の当時では何番であれマーラーを演奏すること自体がニュースになった時代だったのです。稀に採り挙げられてもせいぜい1番か5番くらいで、9番など逆立ちしてもありえないことでした。

 日本におけるこの曲の初演はコンドラシン指揮モスクワフィルによる1967年とのことで、それからまだ12年しかたっていなかったこの時期、当時発売されていたLPレコードでも、普通に手に入れることができたのはブルーノ・ワルター、レナード・バーンスタイン(ニューヨーク・フィル)、ラファエル・クーベリック、ゲオルク・ショルティのLPくらいで、かのカラヤンはまだ演奏したことはなく(同じ1979年11月に初録音)、最新の録音でカルロ・マリア・ジュリーニの演奏が発売されたばかりといった時代だったのです(私はこのLPを購入しました)。

 バーンスタインがイスラエル・フィルを率いて来日してこの曲をNHKホールで演奏されたのがその6年後の1985年9月、中東紛争中のイスラエルからの来日とあって演奏会場が機動隊によって物々しく警護されていたのを覚えています。「バーンスタインはまるで司祭のように」指揮していたと大阪公演での演奏を音楽評論家の大御所吉田秀和氏によって大絶賛された演奏会でしたが、エキストラが多かったせいかアンサンブルの乱れが随所に見られたのはやむをえないとしても、バーンスタインが渾身の力でマーラーの楽譜からその苦悩をどんなに絞りだそうが、終楽章で祈るように静謐な音楽を紡ぎ出そうが、客席から熱く反応するといった様子はあまり感じられず、マーラーの息遣いに無関心な方が多かったことを記憶しています。終演後の大興奮はいつものことながら凄まじいものでしたが。日本でマーラーの9番が定着するのにはあと数年を必要としていたのだと思います。


 練習の際、生まれて初めて女子大のキャンパスに入ってドキドキしたこと、医大の校舎の中でホルマリン漬の標本が並ぶ薄暗い廊下をビクビクしながら歩いたことなどが懐かしく思い出されます。マーラーの音楽の素晴らしさに毎回感動しながら演奏していたものの、その音符は非情にも私の技術を遥かに越えていて何がなんだかわからないうちに本番を迎えるというほろ苦いマーラー・デビューとなったのでした。演奏会場は浅草公会堂、近年は歌舞伎や歌謡曲のコンサートをよくやっているホールです。弾いたのはセカンド・ヴァイオリンでしたが、たまたまセカンドのトップが高校の時の同級生のお兄さんで大学受験の時に電話でアドヴァイスをいただいた方でした。ここで再会した時もとても親切にしてくださったことを覚えています。


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