優雅な歌声が最高の復讐である

 なにかを止めるのに早過ぎるということはないし、逆に遅すぎるということもない。スポーツの世界で活躍をし始めていた若い選手が、大怪我をして体が前のようには動かせなくなった時、同じ競技をいつまでも続けるべきかは本人次第。それが好きなら続ければ良いし、ほかに出来ることがあると思えばきっぱりと止めて新しい道に挑戦すれば良い。それだけのことだ。

 そしてなにかを始めるのも早過ぎるということはないし、やはり逆に遅すぎるということもない。幼い頃から始めなければ上達しないと言われていることを、歳を重ねてから始めてうまくなる例は数多あるし、早く始めた方が自分には合ってないと分かった時に次に道を選べる余裕がある。やりたければやる。これもそれだけのことだ。

 それでも人は悩む。続けてきたこと、それで自分が誇らしく思えてきたことをもう出来ないからと止めるべきか、やりたいから始めたことなら続けるべきかと。多くから羨望を浴びて将来への期待も持たれていたなら、なおさら諦めて良いのかと迷う。

 そんな迷いに、もしかしたら答えをくれるかもしれない物語が、樹戸英斗の「優雅な歌声が最高の復讐である」(電撃文庫、670円)だ。読み終えればそこにどんなことだって今すぐに始められるし、止められるし、やり直せるのだと思えてくるだろう。誰にはばかることなく、自分の道を選ぶ大切さを知るだろう。

 サッカーのとあるクラブチームに所属し、そこで抜きん出た才能を発揮してU−16の日本代表にも呼ばれながら、かつての小倉隆史選手のように練習中の着地に失敗して膝の前十字靭帯を断裂。手術で治ったものの前の感触にどこか遠く、パフォーマンスも前ほど出せなくなった。そのことに耐えられなかった荒牧隼人はクラブを辞め、高校生活を怠惰に過ごしていた。

 そこに瑠子という名の転校生の少女が現れる。なぜかユース時代の隼人を知っているらしい彼女は、完治して機能的には問題ないものの、それでもサッカーをやめてしまった隼人に向かって「できるのにやめちゃうんだ」と非難の言葉を吐く。そのくせに隼人とクラスメートになった瑠子は、実は全米で話題のディーヴァ、RUKOという知られた存在としてクラスで腫れ物扱いを受けながら、ずっと隼人を気にし続けている。

 誘われてもプロだからかカラオケには行かず、人前でなかなか歌おうとしない瑠子は、学校の合唱コンクールで自分は伴奏をやると言い、なぜ歌わないかと問われてそれならと歌って聞かせて違いを見せつけ、自分が入れば違和感が出るからと主張して、伴奏に収まることを認めさせる。その際になぜか隼人を指揮者に指名する。

 まったくもって寝耳に水の事態だったけれど、高慢そうでいてふとした拍子に見せる瑠子の寂しそうな表情をその時にも感じ、彼女を孤立させたくないと思った隼人は指揮者の任を引き受ける。それをきっかけにして次第に2人の関係が深まっていく。

 やがて隼人は瑠子に引っ張られ、ユースチームを退団してからずっと見るのを避けていたサッカーの試合を観戦に行くことにする。誘われても断っていたフットサルの試合にも顔を出し、そして参加までしてしまう。救われた隼人。解放された隼人。その一方で瑠子が抱えていた悩みが露わになる。

 まだやれるのにサッカーを辞めた隼人とは裏腹の瑠子の懊悩を知って隼人はなにをするのか? 瑠子のためになにかできるのか? なにをせずとも良かった。自分が勇気を見せること、サッカーというやれるかどうか分からなくても、自分がやってみたいことへと戻っていった隼人が瑠子に、そしてRUKOにあることを決意させた。

 「優雅な歌声が最高の復讐である」は、若くして壁を知った少年少女の物語だ。そこからは若ければ、いや若くなくても壁なんて乗り越えていけるんだと思わされる。理想の自分、最高潮の自分がかつていて、そこに届かないなら自分は終わり? そうじゃない、やりたいことならやり抜きやり切るだけ、そう諭される。

 一段落がついたあとで、隼人は膝の前十字靱帯断裂を完治させて現役に復帰し、かつてのレフティモンスターと呼ばれたパフォーマンスは影を潜めながらもしっかりとチームのために走り続けた小倉隆史のように復帰して、トップチームで活躍するようになっただろうか。ある理由からアメリカから引き揚げた瑠子は、自分のできる範囲で歌を作り続け、歌い続けただろうか。

 それはこれからの物語だけれど、得られたチャンスを逃さず、できることをやろうとする気持ちを得た2人はきっと、日本代表に復帰できてもできなくても、世界のディーヴァとしてグラミー賞に名を連ねようとも連ねられなくても、自分で決めた道を歩んでいったことだろう。2人いっしょいに? それは2人のみぞ知る。


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