ゆめのかよいじ

 古いことは良いことだという人がいる。古いことは正しいという概念が世の中にはある。なるほどそうかもしれない。近代化された都市の肌触りの冷たさとか、希薄になった人間関係の味気なさに日々接していると、木々に囲まれ山野がのぞめる田舎暮らしが暖かく思え、誰もが他人を思いやる濃密な人間関係が嬉しく感じられる。

 けれどもかつて、情報のすべてが遅れて届く田舎の暮らしは厭われた。監視されているような濃密な関係は疎まれた。働き口の少ない田舎を嫌って誰もが都会へと向かった。古いことは不便だ。古いことは間違っている。新しいことこそが正しい。そんな認識が世の中を被っていた。

 古いことと新しいこと。どちらがいったい正しくて、どちらが間違っているのだろうか。正直いって分からない。考えたって答えは出ない。かつての価値観が今はひっくり返ったように、今の価値観もいつまたひっくり返るか知れたものではない。

 ただこれだけはいえる。人は変わっていくものだし、社会もそれに連れて変わっていくもの。時が流れるものである以上、変化を止めることは誰にもできない。そしてこうともいえる。変化するからこそ、過ぎ去ってしまうからこそ思い出はより切なく、よりいとおしくなる。

 古いことが良いのではない。また新しいことが正しいのでもない。流れ、変化していく時の中、積み重なって永遠に漂う思い出にこそ真の価値があるのではないのだろうか。大野安之の「ゆめのかよいじ」(角川書店、1200円)を読み終えて、そんな思いで胸をいっぱいにさせられた。

 田畑が残り山裾がすぐそこまで迫っている田舎の町に転校して来た宮沢真理は、夏休みまで間もないある日、古い木造校舎が残る通っていた学校の中で不思議な少女を見かける。聞くとかつて愛し合った女生徒どうしのひとりが夭折し、残されたひとりが自殺したことがあり、その自殺した少女が木造校舎の中を今もさまよっているのだという。

 典型的な幽霊話ながらも、真理は恐怖に脅えることなかった。現れては消えてしまった少女がどこか気になって仕方がなかった。何か自分に告げたいことがあるのではないか。そんな想いから校舎内を歩き回って、遂に梨絵という名の少女と出会った。

 「会いたかった、長いこと」といった梨絵に真理は「人違いだよ」と告げ、梨絵は時のはざまへと消えていく。それから梨絵はそれからもしばしば真理の前へと現れて、校舎に残るさまざまな思い出を見せ、森に棲む狐の面をつけた不思議な人々に会わせ、それらが喪われていくことの悲しみを真理に伝える。

 町につたわる「おくないさま」という神様が去り、別の存在は入ってくる場面に見え、梨絵ともうひとりの少女との報われぬ愛の物語に感銘を受けた少女が命を賭して残した音楽が奏でられる場面に居合わせ、真理は変わっていく田舎の姿を嘆く。再び転校していかなくてはならない我が身に涙する。

 古いままが良いのか。変わっていくのは辛いことなのか。悩んでいた真理の前に姿と現した梨絵はこう告げる。「時ってさ……とけるとか、とかすっていう言葉ともとは同じ」「ものが絶えず変わっていくことをいうの」「変わらなければ時が止まっているのと同じ」「死んでいるみたいなもの」「だからわたしも変わるの」「会えなくなってもずっと」「いるわ」「あなたの中に」

 木造校舎が焼け落ち、森が切り開かれニュータウンが建ち並んだ町に何年か経って再びやって来た真理の前に少年が姿を見せてこう告げる。「あのねえ」「まえのおねえちゃんにいわれたの」「あとをよろしくって」。

 去って行くものがあって、生まれるものがあって、それが去って、さらに新しいものが生まれる繰り返しの中で、人は思い出を育むことができる。その素晴らしさを噛みしめることができる。「ゆめのかよいじ」でも、過去に縛られた梨絵は新しい出会いを経て歩み去ることができた。梨絵との出会いと別離を経た真理は未来に生きる次の世代へと思い出を伝えることができた。思い出の連鎖がそこに生まれ、育まれようとしている。

 時には古きに溺れてみても良い。新しきに憧れても構わない。ただこれだけは忘れないでおきたい。すべては変化する。そして変化の中でしか思い出は生まれない。過去から現在へと至り、現在から未来へと続く時間をあるがままに生き、あるがままに死んでいく中で、素晴らしい思い出を作っていきたい。


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