Kit’s Wilderness
闇の底のシルキー

 春の来ない冬はないけれど、冬を越さなければ春には絶対にたどりつけない。朝の来ない闇はないけれど、朝にならばければ闇は消えてなくならない。人はだから、寒い冬、暗い闇を頑張って生き抜き、春の訪れを、差し込む光を待ちわびる。

 季節だったら頑張りさえすれば、時間がやがて春を呼ぶ。太陽がなくならない限り、待ってさえいれば朝は来る。けれども。人生の途中におとずれる冬の季節を、人はどうやって越せばいいんだろう? 待っているだけでは晴れない心の闇を、どうやって振り払えばいいんだろう? 

 その答えのひとつの形、体に春の訪れを呼び込み、心に朝の到来を告げるための道筋を、田舎の村に引っ越して来た少年が経験した、不思議でちょっぴり怖い出来事を描いたデイヴィッド・アーモンドの「闇の底のシルキー」(山田順子訳、東京創元社、1900円)が見せてくれる。

 祖母を亡くして落ち込んでいる祖父と一緒に暮らすため、父母とともに炭鉱のあった村、スーニゲートに引っ越して来たキット・ワトソンは、黒ずくめの服で悪魔的な雰囲気を持ったジョン・アスキューに誘われて、暗い洞くつで死んだふりをする奇妙なゲームに参加するようになる。

 回したナイフの先端にいた子供を洞くつの中で眠らせ、「死」というものを経験させたと思い込ませ、自分たちも思い込むのが「死」のゲーム。不謹慎な内容でも、しょせんは子供によくある「死」への好奇心から出た遊びに過ぎないものだった。けれども、順番が回って来て「死」を経験させられていた途中で、アクシデントがあって目を覚ませられてしまったその日から、キットの目になぜか、100年以上も昔の落盤事故に埋もれて死んだ子供たちの姿が見えるようになってしまった。

 その落盤事故で死んだ117人の名前を刻んだ記念碑には、13歳で死んだジョン・アスキューという少年がいて、やっぱり13歳で死んだクリストファー(キット)・ワトソンという少年がいた。今また「死」のゲームをはやらせようとしている13歳のジョン・アスキューがいて、彼にさそわれゲームをプレイした13歳のキット・ワトソンという少年がいる。過去と現在をつなぐ符合に、もしかすると自分たちは、生まれながらに死んでいるのではないのかと子供たちは悩む。希薄になっていく自分たちの存在感に、アスキューもキットも心を惑わす。

 くわえて行く先々に、シルキーと呼ばれる美しい少年をはじめ、落盤事故で死んだらしい子供たちの幽霊たちが現れては、「死」の匂いを振りまき、キットの心を闇の底へとひきずり込み、キットの体を冬の季節に縛り付けようとする。期を同じくしてだんだんと老い衰えていく祖父の姿があり、酒飲みの父親に反発して家を飛びだし、行方不明になってしまったアスキューがいて、キットの心身をいちだんと凍えさせる。折しも季節は寒い冬。都会から遠く離れ、保守的な雰囲気が色濃く残って閉塞感にあふれた田舎の村で、キットの気持ちもともすれば萎えそうになる。

 けれどもキットには物語があった。祖父に聞いた話をもとに書いた物語が教師からも同級生からも高い評価を受けていたキットは、退廃的な気分をふりまくアスキューに引っ張られることなく、物語を紡ぐことで生きる力を奮い立たせていた。

 アスキューを追って厳寒の洞くつに入り込んだ時も、原始の世界に生を受けた少年の、赤ん坊だった妹を守り獣と戦い冬の寒さをしのいで生き抜こうとする姿を描いた物語を紡ぎ、冬の向こうにある春へと向かってひた歩き、闇の果てにある光をその手に掴もうと頑張る姿を語る。その声が、親から虐待と周囲の無理解によって闇へと流されかけたアスキューを明るい場所へと引き戻す。その言葉が、悲しいことを乗り越えて進むための勇気を読む人に与える。

 先に邦訳も出た「肩胛骨は翼のなごり」(山田順子訳、東京創元社、1900円)で愛の奇跡を描き、全世界から感動の喝采を浴びたデイヴィッド・アーモンドが紡いだ死と再生の物語。冬に凍え闇に脅えた多感な少年には勇気をもたらし、生活に疲れ恋愛に迷う悩める大人には力を、きっともたらしてくれることだろう。 


積ん読パラダイスへ戻る