小説ワンダフルライフ

 死んだらそれまでだと思っている。魂がどうとか天国がどうとかいった話に感傷的になれた年代はもう卒業した。後はこの世でどれだけ楽しく生きられるのかだけを考えている。人間の人生が全宇宙的においてどれだけの意味を持つのか、なんて難しい話に考えが及んでいささか虚無的になる時もあるが、だからといって今をどう生きこれからをどう生きるかを考える態度に、大きな変化はない。

 大切な思い出だけを持って人は天国に行ける。映画「ワンダフルライフ」の設定から、だから死後の世界を信じさせる宗教めいた薫りはいささかも感じなかった。というよりおそらくは見る人の多くが、かくも幸せな死後の世界を映画に願っているとも思えなかった。「あなたの人生の中で一番大切な思い出はなんですか」。そう観客に問いかけることによって、死後よりもむしろ生きている今を足元から見つめ直し、過去に耽溺するよりむしろ未来に向かって進み、そこで思い出を幾らでも作れば良いんだよと言っているように思えた。

 映画を監督した是枝裕和が書いた「小説ワンダフルライフ」(早川書房、560円)は、基本的には映画のストーリーをそのままなぞって描かれている。月曜日。役場とも学校とも思える施設にその前の週に死んだ人々が集められ、職員から一人ひとり面接を受ける。「あなたがの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んで下さい」。

 そう聞かれて老人は自分の女性体験を次から次へとしゃべり続け、女子高生は東京ディズニーランドで乗ったスプラッシュマウンテンの思い出が一番かな、と告げる。伊勢谷という青年は思い出を選ばないことで自分の人生に無責任を取ると宣言して選ぶことを拒否。平凡に生きて死んだ70歳の老人はあまりにも平凡だった自分の人生から一番の幸せを選ぶことができずに逡巡する。

 映画ではそんな彼らから一番の思い出を引き出し、映画に撮って試写室で見せて感極まった瞬間に天国へと向かわせるまでが描かれる。70年の人生をビデオテープで見続けた老人はその平凡さに最初は落胆しながらも、ふとしたきっかけから見合い結婚した妻とリタイア後に映画を見に行った時の淡い思い出を選び出し、映画の場面に撮ってそれを大切な思い出にして昇天する。ただ一人伊勢谷という青年だけは最後まで拒否して残されてしまった者としての道を選ぶ。その道とは。

 死者が人生を振り返り大切な思い出を選ぶことの大変さが映画では大きくクローズアップされる。実際に街へと出て一般の人々にアンケートを繰り返し、あるいあ俳優が演じる思い出へと入れ込み中には語った本人が出演して思い出の場面に身を浸らせる。それはなるほど幸せを選び取った者への羨望と、自分もあれほどまでに素晴らしい思い出を得体という欲求をもたらす。

 けれども「小説ワンダフルライフ」の文字による情景描写では、映画で出演者たちによる演技として描写された以上に、不思議な施設に働く職員たちの幸せを選んで旅立っていった死者たちに対する複雑な感情がくっきりと浮かび上がり、結局は幸せになった人々への素直な感情移入を阻む。もしかしたら自分には幸せな時なんてなかったんじゃないか、選ぶ資格なんてないんじゃないか、という不安を抱かせる。

 職員たちとはつまり大切な思い出を選べなかった人たち。幸せを見つけられずに、あるいは現世に未練を残して思い出を選ばなかった人たちが、死者たちの幸福な思い出に毎日接して身を、心を痩せさせる。とりわけ唯一の女性職員、里中しおりは若いことと職員としての経験がまだ浅いこともあってか、そうした嫉妬にも似た感情の発露が職員の中にあって一番はっきりと見える。

 スプラッシュマウンテンを選ぼうとした女子高生の屈託のなさについ意地悪をして、それを選んだ人が大勢いると告げて思い出の月並みさを突いてしまう。映画に撮るためのロケハンに行っては同級生だった女の子たちが現世で楽しそうにしている姿を見かけ、彼女たちが自分が忘れ去れていることを哀しむ。しおりが補佐する職員、望月に恋愛にも似た感情を抱き、それが現世での思い出以上に強い想いとなって心に灯ってしまっているため、自分が生きていた中で一番大切な思い出を選び、他のすべてを忘れて天国に向かうことがどうしても出来ない。

 望月とて同様。50年以上も前の戦争で死んだ彼は結局思い出を選べずに、生と死の狭間にあるこの施設に止まり死者の面接を続けている。他にも似た境遇の職員たちが現世への未練を、思い出を選べない葛藤を語る度に「人生において大切な思い出っていったい何だろう」と深く考え込ませる。それは死者が次々と大切な思い出を選んでいく場面を超えて、暗い影となって心を沈み込ませる。

 映画で人生をポジティブに見つめ直し、小説でネガティブに振り返った後で抱く想いはともすれば虚無へと向かう可能性も皆無ではない。だがしかし。葛藤する職員たちの未練とも悔恨ともつかない想いに触れた後、過去を耽溺して思い出探しをするくらいなら、残された人生でさらに大切な思い出をつかむべく、努力しようと思えるはずだ。取りようによってはコインの表と裏のような関係にあるとも言える映画と小説の「ワンダフルライフ」。もちろん映画だけでも構わないが可能ならば両面から人生の思い出の価値を考えてみると良いだろう。

 「自分の人生の中で一番大切な思い出になるのは何だろう」

 前に向かって大切な思い出を探し続ける人生こそが、終わってしまえば常に幸せだったのかもしれないが。


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