ヴァンパイア・サマータイム

 貧乏人とお金持ちだったり泥棒とお姫さだったり異なる人種の人たちだったりと、出自が違う男子と女子とが出会い、最初はちょっぴりすれ違いながらも言葉を交わし、やがて心を通じ合わせるようになっていくという純愛ストーリーを、人間とヴァンパイアという設定の上に重ねて不思議な世界観を醸し出し、読んでふわっとした驚きと喜びを与えてくれる物語。それが、石川博品の「ヴァンパイア・サマータイム」(ファミ通文庫、600円)だ。

 昼間に生きる人間がいて、夜に生きる吸血鬼がいるという。日本の場合だと吸血鬼の人口はだいたい6000万人で、日本の人口がどれだけになっているかは分からないけれど、だいたい生きている“人”の半分くらいが吸血鬼だと捉えるのが良いみたい。そして人間と吸血鬼の2種類の生命が、日本の昼と夜とを二分して暮らしている。というか吸血鬼にとっては人間の昼は夜で夜は昼。そいういう言葉すらも使うのに意識が必要な世界となっている。

 そして物語は、自宅のコンビニで働いていた高校生のヨリマサこと山森頼政という少年が、人間にとっての夜で吸血鬼にとっては朝の時間になって、学校に行こうとする冴原綾萌という少女を見初め、知り合いになって起こる交流を描いていく。ドリンク類を補充する棚の裏側にいたヨリマサは、動くと買う人が気になるかもと動きをとめて向こう側を見ていた。そこに現れた冴原。暗くなっているから気づかれないだろうと、ずっと息を潜めていたヨリマサを実は、冴原はしっかり認識していたという。

 なぜって吸血鬼だから。人間にとっての夜を昼間と感じる吸血鬼には、暗い場所もちゃんと見えてしまうという。そう言われて気恥ずかしさにのたうちまわるヨリマサだったけれど、冴原とはそれが縁になって言葉を交わすようになり、同じ学校の同じクラスを時間を分けて使っているクラスメートだということを知る。

 何となく知ってはいても、本当に時間が違うクラスメートがいるんだという実感を得たこともあって、人間にとっての昼間に学校に来たヨリマサが、人間のクラスメートの机に入っていた、吸血を示唆するような置き手紙を見てそれが、自分たち人間にあてての脅迫なのとまずは思ったのも仕方がない。もっとも、犯人探しをする過程で冴原に相談を持ちかけ、彼女にヒントを与えそして彼女が動いて理由らしきものに迫るというミステリ的な展開を経て、2人は昼と夜に別れながらも、コンビニを接点にして次第に仲を近づけていく。

 冴原の同級生で、ふくよかな胸元を持った少女が、人間の朝になっても教室で眠っていたのを発見して、日光に当たれば体に被害が出てしまうと慌てて保健室に運んであげたりと、吸血鬼に対してオープンなスタンスを見せるヨリマサ。そんな縁から深まった冴原との仲は、少女の同級生達が集うお泊まり会に呼ばれて行ったり、2人だけで夜の遊園地へと出かけたりする関係へと深まっていく。

 ともすれば、昼と夜、人間とヴァンパイアの壁を超えられない悲劇としてとらえ、うち破るなり逃避すると言ったドラマへと持っていかれがちな設定だけれど、そうはならないで、お互いに受け入れ認め会いつつ最善を目指そうとするところが新鮮に映る。ひたすら熱血の汗が飛び散るような青春小説とも違った、ある種のさわやかさと優しさを感じさせてくれる。そこが新しくそして心地よい。

 吸血鬼がコウモリをペットにしているのが普通だ、といったことを養護教員がサラリと言ってのける場面などは、声高に昼と夜の世界の差異を叫ばず、そういうものだと誰もが認識している世界の落ち着きを感じさせる。それだけに、やはりどうしてこういう世界が成り立ったのかを知りたい気持ちも残る。

 設定そのものに迫るSFというより、特定の設定の上で繰り広げられるドラマを味わう寓話。だから、全世界の約半分が、どうして吸血鬼になってしまって、そして争いもなく共存している状況がどうして成り立って、そしてどうして理解し会えているのかという説明は一切ない。もっとも、突き詰めないからこそさまざまな可能性への期待が浮かぶ。いっしょにやっていけるんだ。そんな可能性をあれこれ理屈っぽく考えることなく、当たり前のことのようにふんわりと噛みしめるべきなのかもしれない。


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