歌う峰のアリエス

 この世界が誰かによって作られ、生み出された仮想の世界でないと言えるのか? だって僕たちには意識があって、意志に従って自由に動き回ってそして死ぬ。そこには作為もなければ運命なんてものすらない。だから仮想の世界だなんてことはあり得ない。そう反論できる。したくなる。

 けれども、ふと思う。僕たちにある意識も意思も、ただのプログラムに過ぎなくて、偶然のように見える出会いも、実は、誰かによって仕組まれたものに過ぎないのではないかと。そして、長い時間を過ごして人生を終えたと思ったその瞬間は、プログラムが役目を終えた時に過ぎないのではないかと。

 この現実にあるかもしれない外側を、この現実にあり得る内側を描くことによって感じさせてくれる。そんな物語が、第10回C★NOVELS大賞で大賞を受賞した松葉屋なつみの「歌う峰のアリエス」(中央公論新社、900円)だ。空が開け峰が連なるファンタジー調の世界では、<羊>と呼ばれる存在がいて、中空を行き交う紙飛行機に寄生する悪いものを取り除くことで世界を守っている。

 もっとも、紙飛行機とは「メール」のことで、ファンタジー世界に見える舞台も、実は<ARIES>という特別なサーバーの中につくられた架空の世界だとすぐに分かる。<羊>たちはそんな世界で紙飛行機、つまりはメールに取り憑くウイルスを除去する仕事に就いていた。

 言うなれば<羊>とはアンチウイルスソフト、あるいはセキュリティ機能を擬人化した存在ということになるけれど、興味深いのは<羊>たちがそんな自分たちの立場を“自覚”している点。ただの機能に人格はなく、従って自覚もないけれど、<羊>たちは一種の人工知性のように人格を持ち、誇りをもって仕事に取り組んでいる。問題が起こったら自分たちで対処も考える。そう描かれている。

 そんな、とてつもないサーバー<ARIES>を構築したのは、ファティマという名の天才女性プログラマー。もともとは、完璧なセキュリティシステムを作るために立ち上がったプロジェクトで、合わせて12機のサーバーを作り走らせていたけれど、その11機までもが機能を停止。そしてプロジェクトの途中でファティマが失踪し、後に<ARIES>だけが残された。

 そこでいったい何が動いているのか。どうして<ARIES>だけが生きているのか。それが、残された人たちには分からない。だから<ARIES>を開いてデータを取りだし、解析しようとする動きも出ていた。ファティマの下にいて<教授>と呼ばれている研究員は、そうした無理な解析が<ARIES>を乞わして仕舞いかねないと訴え、許された時間内でその秘密に迫ろうとする。

 そのために、ファティマの娘で天才的なハッキング能力を持ち、幾度も<ARIES>に接触していたジュニアと名乗る少女を、預けられていた親戚の元から研究室へと引き取り、<ARIES>へと挑ませる。

 母親に匹敵するハッキング能力を持ちながら、母親に負けず性格に難のあるジュニアは、男子のような格好と乱暴な口調、ぞんざいな態度で<教授>を手こずらせる。それでも母親が仕掛けた謎を解けるのは自分だけだと決意し、<ARIES>の正体を突き止めようとして外から刺激を与えることに成功。それが<ARIES>の中にある世界を激変させる。

 ジュニアがサーバー内に送りこんだ一種のウイルスが、<ARIES>の中の世界に起こす深刻な事態は、善良だった<羊>たちを脅かし、変成させて峰が連なる平穏だったサーバー内の世界を破滅へと追い込もうとする。刺激され、鍛えられる中で自動的に進化していくプログラムといったテクノロジーが、サーバー内の仮想の社会で物語りという暗喩を得て表現されていく。

 そんな果てに羊たちがたどり着いた境地はいったい、現実の世界に何をもたらすのか。あるいはもたらしたのか。それは果たしてジュニアが望んだことなのか。そしてファティマが予想していたことなのか。

 <ARIES>というサーバー内の世界をまず変えることで、結果として<羊>たちがあふれ出した外の世界も変わるかもしれない可能性。そこまで見通してファティマは<ARIES>を作り出しただとしたら、そしてそれを知ってなおジュニアは<ARIES>を開放したのだとしたら、その目的はいったいどこにあったのか。考えてみたくなる。

 サーバー内ではない現実の世界でジュニアが見せる変貌も興味深いポイントだ。極寒の地で虐待されている弱者といった顔をしながら、したたかにハッキングの腕を磨いていたジュニアが、<教授>との日々の中で可愛らしい服装に着替え、少女らしい言葉を使って<教授>を惑わせる。これもまた外部の刺激を受け影響を与え合いながら、変わることのを現しているのか。そうした変化によって他の誰かを動かそうとする企みなのか。内側と外側が絡み合い、入れ変わるような関係性が、この現実に対する認識を揺さぶる。

 これから先、新たな世界とそして進化した羊たちの物語というものが描かれる機会があればそれはきっと、とてつもない変化が世界に訪れる様を見せてくれるだろう。もっとも、それすらもファティマという存在の手のひらの上で起こったことだとしたら、いったいファティマとは何だったのか。<ARIES>世界を司っていたファティマは、現実世界をも支配する神だったのか。そんなファティマを操った高次の存在はいたりするのか。

 もしも描かれたとしたら、きっと見せてくれるだろう。世界はどこまでも広く、そして高いものなのかもしれないのだということを。


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