アンダーグラウンド
underground

 涙がにじんで仕方がなかった。

 地下鉄千代田線の霞ヶ関駅で、あの惨劇に遭遇した女性が、同じ被害にあった少女をマスコミからガードしたエピソードに。取材に来ていたテレビ局のバンの運転手にかけあって、被害者を病院まで運んでもらったエピソードに。やはり霞ヶ関駅で事件の被害を受けた営団地下鉄の職員が、重体の同僚を運んだ病院で放ったらかしにされて、いらいらを募らせたエピソードに。商社に勤めるエビのスペシャリストが語る、壊滅寸前になっていた夫婦関係が事件によって完全に壊れてしまったエピソードに。

 それは、事件を伝えるという大義名分を振りかざして、自己と組織を満足させるだけに過ぎないスクープを狙う、マスコミの人々への怒りの涙であり、大事件が起こっているのに、それを事件として認識し得ない想像力と緊迫感に欠けた世の中への憤りの涙であり、偶然、不可抗力的に遭遇した事件によって、一人ひとりの生活が確実に変わってしまったことへの同情の涙だった。

 村上春樹が「アンダーグラウンド」(講談社、2575円)に採録した証言を読み始めた時、ゆるみはじめた涙腺が気になって、何度もページから目を上げて、数度瞬きをした後で、再び本に目を落とす、そんな繰り返しを余儀なくされた。だが、そんな辛く哀しい想いを味わっていられたのも、せいぜい5人目くらいの証言者までだった。

 10人、15人とそれぞれの「地下鉄サリン事件」を読み進むうちに、実在する人物が実在する事件について話している、真にリアルな言葉であるにも関わらず、そのリアルさがどんどんと希薄になっていくような気がしてならなかった。事件の直後から、日夜テレビで繰り返し放映された惨劇の場面の映像が、やがて最初の衝撃をどんどんと失っていき、そのうちにかつて起こった1つの出来事に過ぎないと感じるようになり、最後にはテレビの向こうにしか存在しなかった、架空の出来事かもしれないという考えに取り付かれてしまったように。

 一人ひとりのインタビューイは、悲劇を嘆き犯罪を憎んで様々な言葉を連ねる。インタビュアーはそれをありのままに伝える。間にノイズはほとんどない。すべてがストレートに伝わっていいはずのリアルな言葉が、「アンダーグラウンド」には約60人分収録されている。だが人は、いくらリアルだからといって、それほどまでの数の言葉を許容し得るほどには、他人に対して興味を持っていないのではないか。立場の数だけ事実はあるといっても、同じ事件について語られた言葉にはおおよその共通点があり、それを繰り返し語られることによって、いくらリアルな言葉だからといっても、しだいに鈍感になってしてしまうのではないか。いくら大きな悲劇であっても、人間はその衝撃にいずれ慣れてしまうものだ。

 あるいは村上春樹が、いくらリアルな事件であっても、繰り返し語られることによって、次第にリアルさを失うのだということに、警句を発しているのかもしれないとも考えられる。だとしたらこのボリュームは納得できる。しかし、村上春樹の本書を編んだ動機からは、そうした意図なりメッセージ性は伝わってこない。

 たとえばこれがすべて、虚構の事件について語られたバーチャルな証言の集大成だったら、もっと違った結果が得られたような気がする。一人ひとりがそれぞれの立場で、時には周囲に気兼ねをし、時にはエゴをむき出しにして語るバーチャルな物語を積み重ねることによって、そこからリアルな物語を生み出すことだって出来たはずだ。

 むろんそうした物語を作り上げるには、作者に物語によって何かを語ろうとする意図があり、伝えたいと考えるメッセージがなくてはならない。そうした意図やメッセージがなければ、バーチャルな物語の集大成も、同じくバーチャルなままで終わるだろう。しかし、わざわざ苦心してバーチャルな物語を積み重ねる以上は、やはり意図なりメッセージを込めるはずだ。

 逆に言えば、リアルな言葉を積み重ねること「だけ」を主旨とした「アンダーグラウンド」には、そこから何かを汲み出したいというインタビュアー、つまりは村上春樹の意図なりメッセージが、すっぽりと抜け落ちているような気がする。編者は極力中立性を維持し、あとは読者がそこからある種の意図なりメッセージを汲み取る作業を行えばいいと、そんな意見も確かにあるが、しかしバーチャルな言葉の積み重ねによって、リアルなメッセージをつむぎ出して来た「作家」村上春樹の、それは決して適切な仕事ではない。

 彼にとって「アンダーグラウンド」は、「東京の地下でほんとうに何が起こったのか?」と疑問を抱いた地下鉄サリン事件を、さまざまな角度からリサーチして確認していく作業だったに違いない。世俗から隔絶された生活を送って来た彼にとって、「アンダーグラウンド」で行った作業は、今の日本を理解する上で、必要不可欠なものだった。しかし読者は、そんな遅れた彼につき合わされて、さんざん聞かされ見せられ読まされた出来事を、再び繰り返し押しつけられることによって、事件への記憶や感情を、さらに平準化させられてしまった。

 自律して平準化を拒み、リアルであるとないとに関わらず、すべての言葉から何からの意図なりメッセージを汲み出す作業を拒むのを、読者の怠慢と言うなら言われても構わない。しかし一方で物語の送り手が職業として成立し得るのも、そうした作者の物語を他律的に受けとめる読者がいるからではないか。村上春樹に期待するのはまさにそこなのだ。

 今後、村上春樹が「アンダーグラウンド」によって確認した「何か」を、「物語」に作り替えてくれるかどうかは解らない。しかし、バーチャルのなかにリアルな意図とメッセージを込めて提示してくれる日を、その意図とメッセージによって希薄になったあの事件への記憶や感情を、ふたたび濃密なものへと変えてくれる日を、今は夢見て止まない。
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