星海への跳躍


 子供の頃、タイヤチューブの浮輪の穴に背中とお尻を突っ込んで、シーズンオフ間近の人気(ひとけ)の少ないプールを、プカプカと漂っているのが好きだった。見上げれば青い空、見渡せば青い(ちょっぴり黒い)水。何時間もの間、そよそよと吹く風だけを頼りにプールの水面を漂っていると、だんだんと空と水との境目が曖昧になって来る。永久(とわ)の広さを持つ無重量の空間に、1人ポツンと取り残さた気持ちに囚われ、これがまた楽しかった。

 泳ぐのは疲れるからキライだった。ビート板は小さすぎるし、ビニールボートなんて高いものは持っていなかった。だいいちビニールボートでは、水の上に浮かんでいる感じはするけれど、漂っているって感じは得られない。より肌身に近く、空と水を感じていられるから、タイヤチューブの浮輪が好きだった。

 プールに限らず海でも、そして空でも、泳いだり飛翔することによって得られる達成感というものがあることは知っている。しかしその感覚は、プールや海や空を漂うことによって得られる一体感とは違っているような気がする。

 たぶん近い将来、宇宙に自由に人々が出て行けるようになった時代、ロケットで宇宙(そら)を切り裂いて突き進むスピードレースなんて開かれることになるだろう。一方でただ小さな推進装置だけを頼りにして、宇宙空間をフワフワと漂うだけの楽しみ方も出てくるだろう。宇宙と一体化できるのは・・・。そう、もちろん後者の方だと思っている。

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 「臨海のパラドックス」「無限アセンブラ」に続いて邦訳された、ケヴィン・J・アンダースンとダグ・ビースンのコンビによる長編SF「星海への跳躍」(嶋田洋一訳、ハヤカワ文庫SF、上下各660円)には、真空中に巨大な帆をはって、太陽風で宇宙空間を漂うことのできる生命体「セイル・クリーチャー」が登場する。

 つかまれば人間だってやすやすと運ぶことのできるこの「セイル・クリーチャー」は、大推進のロケットで宇宙を突き進む乗り物よりは、イメージとしてプールの浮輪に近い。加速を続けるロケットの中で、シートに背中を押しつけられて宇宙空間を突き進んでいくよりは、宇宙服を着込んで「セイル・クリーチャー」につかまり、太陽風と重力による加速だけを頼りに何百、何千、何万キロも漂っていくほうが、子供じみた感情だけど、なんだか楽しそうな気がする。

 もっとも「星海への跳躍」で、宇宙空間を「セイル・クリーチャー」によって漂うことになったのは、決して楽しむためではない。むしろ恐ろしく過酷な運命によって、やむなく選択した道だった。なぜなら「星海への跳躍」で綴られているのは、月軌道上にコロニーが浮かび、人が比較的容易に宇宙空間へと出られるようになった時代を舞台に、死と隣り合わせの過酷な運命を強いられた人々が、英知と行動力によって生き伸びようとした記録なのだから。

 突発的な核戦争によって、軌道上に置き去りにされたまま地球との連絡を断たれた3つのコロニーと1つの月基地。フィリピンからの移住者によって形成されたコロニーでは、壁ケルプというバイオテクノロジーによって作り出されたタンパク源によって、食料危機からは救われた。しかし米国企業の研究部門が入ったコロニーでは、存続していくために居住者の1割を宇宙空間に放り出す施策が指導者によて実施され、またソ連のコロニーでは、別の技術によって再び地球との連絡が再開するまで、沈黙の時間へと入った。

 食料自給に目処のついたフィリピンのコロニーでは、自領の快復だけでなく、他のコロニーや月基地にも壁ケルプを届けることにした。だが、コロニー間や月基地との間を結ぶ宇宙船は1機も存在しない。そこで移動するための手段として考え出されたのが、「セイル・クリーチャー」を乗り物として使いこなすことだった。

 1人の少年が、「セイル・クリーチャー」に乗って遠く離れたコロニーまで漂っていく場面を想像してみよう。宇宙空間にめいっぱい帆を広げた「セイル・クリーチャー」の姿は、海では巨大なひれを振わせて移動する「マンタ」、あるいは畳かるく6畳分の大きさで漂う「マンボウ」の姿を、空では目に見えるすべての空を覆い尽くして翼を広げて飛んで行く幻の鳥「鵬(ほう)」の姿を、それぞれ思い浮かばせる。

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 宇宙へのロマンをかきたてるシーンとともに、「星海への跳躍」で語られているのが、危機に瀕した人間がとる行動の危うさだろう。たとえ信念に満ち、あるいは綿密な計算に基づいてとられた行動であっても、それが結果的に正しいことだったのか、行動した当人にすら解らなくなる時がある。餓死と暴動を防ぐために人為的に人減らしを行った米国のコロニーの指導者は、食糧危機から救われた後も、戦争が勃発した時点で出来うる最良のことをしたという信念だけを拠り所にしながら、コロニーの統治を続けていくが、結局は自分の犯した間違いに悩み苦しむことになる。

 粛正を予感してコロニーを飛び出した男も、向かった月で大切な人を事故で失い、愚かな選択に苦しみながら、新しい人生を歩んでいこうと懸命になる。ソ連のコロニーでも国家による命令と人間としての良心のはざまで何人もの人が悩みもだえる。宇宙冒険小説としての楽しみ、人間心理の強さと弱さをえぐりだした心理小説としての楽しみ、浮遊するコロニーや月基地を国家にみたてた政治小説としての楽しみと、1冊でいろいろな楽しみ方ができるのも、「星海への跳躍」の特色だ。

 「ソ連」という今は存在しない国家連邦の未来の姿が描かれているため、現在から見れば過去から枝分かれした異なる未来の話になってしまった。仕方のないこととはいえ、興を削いでいるようで残念だ。同じく「ソ連」への忠誠より人間としての良心の間で苦しむ司令官の姿も、今となっては「冷戦」の亡霊でしかなく、読んでいてつらい。

 未来を予測するといわれたSF作家を上回って、世界的な規模で枠組みの変化がおこった80年代から90年代後半を経て、それ以上の混沌とした未来に向かっている今がある。SF作家の慧眼が見出す未来像はどんな姿をしているのか? ここは是非ともアンダースンとビースンの2人組に、見事な復活戦を演じて戴きたいものである。


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