東京飄然
とうきょうひょうぜん

 うくく。

 などとネガティブな感情を脳髄に溜め込んで、世を斜下から見上げて睨みつけるスタンスが、どことなく居場所のなさに惑い鬱屈する男どもの同感を、招き寄せずにおられない町田康。

 「東京飄然」(中央公論新社、1800円)は、そんな鬱屈した気持ちが全身へと回り、やがて爆発していく町田の小説群とも重なって、世間から後ろ指を指され、蔑まれているのではないかという妄想に苛まれながら、東京や鎌倉や大阪や銀座を放浪した記録を綴ったエッセイ集。

 世間の冷たい風に身を刺され、屈辱を味わいそれでも逃げず性懲りもなく出かけていっては、やはりまたしても屈辱にまみれる悲しさたるや。わき上がる同情心。そして供に苛まれる羞恥心。呟き出る言葉。

 うくく。

 「旅に出たくなった」と行って、向かう先はいきなりの早稲田。そこから都電荒川線に乗って王子に向かうしょぼくれぶりこそが飄然。午前中は仕事があり猫の世話もあって遠出が出来ない。何ともまあ実に小市民的なヌルさに溢れている理由。

 出向いた先でもひなびた食堂へと入っては、そこでまずどの席に座ったら良いか逡巡。注文すると明るい返事をもらえず味わう悲しみ。そして出てきた「さくらうどん」のうまさに納得。その後に領収書をもらおうとして叱られるかもしれないと怯懦。退散。

 うくく。

 大阪で入った串カツ屋。デパートの8階にあるこ洒落た店。金属バットではなく陶器の皿に盛られたカツに小皿のソースを着けて食べる作法。「なにをぬかしてけつかるのであろうか。串カツというものはそんなものではなく、無骨なバットに置かれたカツを巨大な弁当箱みたいなバットにはいったまっ黒いソースにどぶどぶにつけて食べるものに決まっているやんけざます」。

 しかるに黙視。不叫。非暴。8本のはずが7本しかカツが来ず、辞去した最に挨拶もされない屈辱に味わう釈然としない気持ちに新幹線で帰った新橋で、リベンジを果たそうと串カツ屋を探すも見つけられず、歩き銀座へと向かいみつけた店でまたしても同じ様式に叫ぶより涙。

 それでも注文の本数は届き「勝った」と認め帰宅。「私は生涯人になめられて暮らすのだなあ、と思いつつ歌いつつ」。1本足りない串カツごときに怒り悩んだ過去を顧みて反省。それしきのことをと反省。

 うくく。うくく。うくく。

 その自虐。若い世代なら滝本竜彦の「超人計画」、本田透の「電波男」と重なる鬱屈ぶり。けれども決して町田康の鬱屈は、滝本本田のように若い世代の同世代的関心のみを、誘い引きつけるものではない。なるほど自虐。しかるに諧謔。

 自虐であっても漂う可笑しさ。故に浮かぶ同情心。ともに漂う嘲弄心。ないまぜとなった感情を読み手に引き起こし、笑い怒り喜び悲しませる文体。どろどろとしているようでどこかさらりと乾いた表現。すべての世代のあらゆる人々に共通の鬱屈。とらえすくい取り示す随筆。

 自虐自嘲に溢れながらも、押しつけがましさは皆無。鬱陶しくなど思えず泣け笑える町田作品の真骨頂。それが隅々まで存分に発揮された紀行文。写真も当人。西森美美と並ぶ町田康の名。蕭然としつつ飄々としつつ。どのエッセイよりもどの小説よりも端麗。万人の好む作品。あるいはすべてを置いて町田康の頂点と人は認知。パンクロックよりも。芥川賞よりも。それはそれで。

 うくく。


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