東京バッティングセンター

 バッティングセンターは割とあるのに、ピッチングセンターというものを見たことがない。投げるピッチャーがいて、打つバッターがいて成り立っているのが野球というスポーツだ。打ちたいという人もいれば、投げたいという人も同じぐらいいて不思議はないのに、打てる場所はあっても投げられる場所はない。  なぜなのか?

 打ちたい人のために投げる機械は作れても、投げたい人のために打つ機械を作るのがなかなか難しい、といった理由があるからなのか。スピードガンを置いて格子状に枠を張り、コントロールとスピードを競うだけでは、ピッチングの醍醐味は味わえない。

 相手が構えるバットに空を切らせてこそのピッチング。あるいはボテボテの当たりにしとめてアウトを取るのがピッチング。時にはホームランを打たれて愕然とするのも含めて、ピッチングにはバッターが絶対に欠かせない。そのバッターを機械に代替させる難しさを考えると、世にピッチングセンターが流行らない理由も見えてくる。

 本当か?

 それは不明。ただやはり、投げて討ち取る爽快感よりも簡単に味わえる、打ってはじき飛ばす痛快さの方を、人はより上に感じるものらしい。そこに立つだけでやって来るボールを、手にした棒でひっぱたくだけで得られる刹那の快楽に、人はすがりたくなってバッティングセンターへと足を向ける。

 だからバッティングセンターは存在し続ける。何かを叩きのめしたい人たちの感情をそこに集めて、今日もボウボウと燃え盛る。

 バッティングセンターが持つ、そんな不思議な喧噪や熱気を物語に取り込んでみせたのが、木下半太の「東京バッティングセンター」(幻冬舎、1400円)だ。歌舞伎町でホストをしているタケシは実は吸血鬼で、客の女性の血が吸いたいと思っているものの、まだ下っ端なので吸えずに悶々としている。

 そんな時に、ナンバーワンホストが刺される事件が勃発。犯人らしいサンタの衣装を着た女を探しに出たものの、ナンバーワンホストとは対立する先輩ホストに誘われ入ったバッティングセンターで、タケシはミニスカにサンタの衣装を着た、ナタリー・ポートマンのような美女をみつける。

 犯人。けれども捕まえようとはしなかった。雪美というこの娘の血が吸いたいと、彼女の見方についてホストたちと一悶着を起こし、実は復讐屋だった雪美の手下のような立場になって、持ち込まれる復讐の依頼に取り組んでいく。

 都会にうごめく吸血鬼の、現代ならではの生きる苦労めいたものを描きつつ、ホストクラブから始まって、三軒茶屋に根城を置く小劇団、神宮外苑に店を構えるおしゃれなカフェと、復讐の対象を追いかけて潜入した先で、それぞれの職業が持っている問題や、そこに携わる人たちが抱く悩みを連作仕立てて描いていく。そのいずれの場所でも、近所にバッティングセンターがあって、仕事に疲れた身を癒す機能を果たす。

 劇団が副業にしていた、誘拐のようなサスペンスを演出して相手を喜ばせたりする仕事の細やかさや、不幸を招く特質を持った男を相手にした、カフェでの七転八倒の攻防など、それぞれのエピソードでスリリングなやりとりはとことん楽しい。

 復讐屋の雪美嬢のギャルぶりや、手助けしてくれる土屋という弁護士の男のタフガイぶり、ペペロンチーニしか出さないスパゲッティ屋の主人に、時折現れては吸血鬼のタケシを板東英子といったキャラクターの起伏もたっぷりあって、いったい何者なんだという興味を誘う。もしも雪美嬢を映画で演じるとしたら、ナタリー・ポートマンを除いて誰が相応しいかと考えてみるのも楽しい。

 なおかつ、そんなエンターテインメントと思わせて置いて、現実に存在しない銀座バッティングセンターを持ち出しつつ、主人公が後悔や未練として引きずっていた心の闇のようなものを浮かび上がらせてみせるクライマックスが圧巻。雪美や英子の正体など、明かされてみてなかなかにシリアスに迫ってくるエンディングに、もういとどあの世界へと戻りたい、バッティングセンターをめぐって球を打ち返して溜飲を下げる日々に戻りたいと思えてくる。

 その先にもう1歩、待ち受けるどんでん返しは果たしてリアルか、それともバーチャルか。そうあって欲しいと願うのは自由だが、そうはならないのが現実というものだ。バッティングセンターのように、待っていて飛んでくるボールを打ち返していれば楽しい場所ではない。

 球は飛んでこない場合もある。剛速球の場合もある。打とうにもバットが手にないことも多々ある。そんな紆余曲折に富んで、まったく先の見えない世の中で、どう生きていけば良いのか。考えよう。そしてバットを置いてケージの外へと踏み出そう。


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