トッカン 特別国税徴収官

 長銃を振りまわすテロリストの少女が、実は亡国のお姫さまだったとか、いつも自信なさげな少女が、ほんとうは天才音楽家だったといった、人生の大逆転を夢見させてくれるような設定とはまるで無縁。そうしたヒロインたちを描いてきた、ライトノベル作家としての経歴から想像して手に取る人には、そんな物語ではないとあらかじめ言っておく。

 むしろ正反対に、人生なんてこんなものだとあきらめを抱かせるくらい、無力で無様で不格好。それなのに、なぜかいっしょに頑張ってみたいと思わせてくれる強力で個性的なヒロイン像を、高殿円は「トッカン −特別国税徴収官−」(早川書房、1600円)という小説で見せてくれる。

 神戸にある和菓子屋の娘に生まれた鈴宮深樹。不安定な民間より安定した公務員が良いと国税局に入って、東京の京橋にある税務署に所属して、税金を取り立てて歩き回る毎日を過ごしている。

 仕事に厳しい上司に突っ込まれ、返事を返そうとして「ぐっ」と口ごもるところから、付いたあだ名が「ぐー子」。そう呼ばれてもやはり何も返せないところにも、ライトノベル作品の格好良かったり、見目麗しいヒロイン像との落差が見える。

 だいたい、滞納者からたくわんを投げつけられ、戻れば上司から「くさい」とあざけられ、国税局(ほんてん)に行った同期の女からは見下されるぐー子の姿を、いったい誰が恰好良いと思うだろう? 浮かぶのは同情ばかり。あるいは同じ様な境遇にある者たちの共感ばかり。憧れなんて絶対に浮かばない。

 とはいえ、現実を考えれば誰もお姫さまにはなれないし、天才音楽家にもなれはしない。望めるのは、いつか自分の仕事ぶりが、世の中に認められる時がくるに違いないという、ささやかな願い。それを抱いて上司の悪口に耐え、自分の信念を貫いて毎日を頑張る等身大のヒロインに、読む人にも次第に、いっしょになって頑張っていこうという気持ちがわいてくる。

 ところが。そうやっって抱いた同情心を粉々に吹き飛ばすような展開へと向かうところが、この「トッカン −特別国税徴収官−」という小説の凄さであり、面白さだ。

 無情な税金の取り立てで、実家の和菓子屋を追い込んだ、いわば仇ともいえる国税局でも、国の財政維持に絶対に重要な存在なんだと自分を説得して、進路として選んだ。慈悲のカケラも見せない上司に対し、弱者を踏みにじるなんて間違っていると、正義漢面して叫んだ。同じ立場におかれれば、そうした態度は間違っていないと、誰もが主張するだろう。

 本当は違う。国税局に入ったのは、他にいろいろ受けてみても、結局はそこしか受からなかったからで、国税の仕事を素晴らしいと思ったからではない。生活が苦しい滞納者の家に毎日のように通うのも、納税者の行く末を案じたり、逆に国民の義務を果たしてもらう正義感からではない。うるさい上司に命令されて、嫌々ながら通っているだけだ。

 多くのことから逃げ出して、残っている道を選んでいるだけの卑怯者。相手の苦しみを思っているようで、自分を犠牲にはしない偽善者。仕事先で出合った女性や、出世欲にまみれた俗物と見なしていた同期生から鈴宮が浴びせられる厳しい言葉は、彼女を等身大のヒロインと同情し、共感して来た人にもそのまま投げつけられる。

 そして、誰でも少しは覚えのある、逃げようとしたり忘れようとした後ろ向きの記憶を暴かれる。いたたまれなさに消えてしまいたくなる。

 そうやって谷底へとたたき落とした先で、高殿円は救いの手を差し伸べる。上司が背負った重荷を見せることで、不幸なのは自分だけではないと気づかせる。その上司が傲岸さの裏で行っていた、ほんとうの親身さを伝えることで、卑怯でも偽善でもない生き方があるんだと分からせる。救われて前を向かされる。

 伊丹十三が映画「マルサの女」で描いたような、レジに仕掛を施したり、法律をかいくぐって金を隠そうとする脱税者のたちに、地道な調査で迫る推理と探求のストーリーはやはり面白く、社会の仕組みをかいま見る楽しみを与えられる。銀座のクラブを経営する女性にまつわるドラマや、追い込まれた町工場の家族のドラマからは、人間にはそれぞれに過去があり現在があり、心があり想いがあるのだと分からせられる。

 その上で、「トッカン −国税特別徴収官−」からは、生きるということの重さと意味を教えられる。お姫さまや天才音楽家になれないからといって、人生をあきらめてはいけない。自分が選んだ道だからといって、それを正当化して独りよがりになってもいけない。大勢の中で生きていて、大勢の人たちに生かされているという現実を噛みしめ、生きていくための道筋を感じ取ろう。


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