時を飛翔する女
WOMAN ON THE EDGE OF TIME

 夢想の中で、幼い日々の幸せに満ちた暮らしに後退する人もいれば、妄想の中で、愛する人に囲まれた静かな暮らしに逃避する人もいる。端から見ればそれは、「夢」や「狂気」の果てにある、幻の世界での暮らしにしか過ぎないが、当人にとっては心ばかりか、肉体をも左右するだけの力を持った、現実世界での暮らしなのかもしれない。

 マージ・ピアシーの「時を飛翔する女」(近藤和子訳、學藝書林、2800円)に登場するコニー・ラモスは、幾度かの結婚の果てに得た最愛の伴侶を殺害され、自らが招いた事件がきっかけとなって子供も取りあげられて、今はニューヨークの街で、貧しい生活を送っていた。食事といえば固くなったパンとコーヒーくらい。ペンを拾ってこれで手紙が書けると喜び、新聞は地下鉄の座席に捨てられたものを読む。そんなコニーのもとを、ルシェンテと名乗る人物が訪ねて来たことで、彼女の過酷な現実世界は、大きく変化していくことになった。

 「わたしはマサチューセッツの村マタポイセットから来た。ただわたしは、そこで、2137年に生きているのです」。ルシェンテはそう自己紹介すると、姪の家族とのいさかいによって、再び精神病院に収容されてしまったコニーの心を、2137年のマタポイセットへと運んでいく。そこは成層圏にそびえ立つ摩天楼も、地下何マイルの世界も、すべてを覆うガラスのドームも存在せず、川や、風を受けて帆を広げた長い足の鳥のような奇妙な構造物や、コニーの時代と大差ないスーパーマーケットくらいしかない、600人ほどの住民が暮らす、静かで慎ましやかな村だった。

 隔離され、投薬によって精神を押さえ込まれている精神病院の中のコニーだったが、夜になれば、病室にやって来るルシェンテに連れられて、マタポイセットの村へと心を飛ばす。人工受精や空を飛ぶ乗り物といった具合に、科学技術は発達しているように見えるのに、ルシェンテの村には大気汚染もなければ騒音もない。1人の男と1人の女による結婚という制度もなく、人は幾人かの男女が入り交じって「ファミリー」を形成して、仕事や家事や育児を分担して暮らしている。

 巨大な政府も必要ない。新しい技術の導入も、ちょっとした村民どうしのいさかいも、すべては村の住民全員が参加した話し合いによって決定される、まさに「ユートピア」しか呼びようのない世界だった。精神病院の中で過酷な生活を余儀なくされているコニーの心は、時空を飛んでマタポイセットの地で安らぎを得る。心のみならず、時には肉体までもが未来へと飛んだかのごとき感覚を得て、伴侶の死以来ついぞ得ることのできなかった、悦びの瞬間すら手にいれる。

 だが、何度未来を垣間みようと、コニーの心は必ず精神病院へと戻って来る。彼女が見ていたマタポイセットの村の暮らしは、彼女だけが見ていた夢だったのだろうか。彼女が出会ったルシェンテたち未来の人々は、彼女の狂気が見せた幻だったのだろうか。理想の未来で心を許せるルシェンテたちとに囲まれた暮らしこそが「現実」だと信じたがっていたコニーに、本当の現実世界への適応を望む家族と医者の手によって、大脳矯正手術が施されようとしていた。

 表向きは、タイムトラベルを扱ったSF作品の装いを持っている「時を飛翔する女」だが、タイムトラベルというギミックの実現そのものが、プロットの核となっている作品ではない。むしろ「理想の未来」を垣間見せることによって、「過酷な現実」の姿を浮き立たせることを狙った、一種の風刺小説だといえる。コニーが見ている未来が、時を経た現実だとは限らず、故に過酷な運命から逃れたいと熱望するコニーが、心も体をも支配するだけの強烈な「夢」、あるいは「狂気」を見ただけの話なのかもしれないと、そんな考えが頭について離れない。

 コニーの目を通して描写される未来の姿が、政治も社会もすべてが平等で民主的である点など、いかにも反戦運動や女性解放運動の経験を持ったマージ・ピアシーらしいが、そのあまりに「ユートピア」めいた描写が、かえって窮屈でおしつけがましく、退屈な未来を思い浮かばせる。もっとも本書が書かれたのが、長かったベトナム戦争が集結し、女性解放運動が盛り上がりを見せていた1976年という時代であったことを考えると、こうした「平等礼賛」のプロパガンダ的性格と持っているのも、やむを得ないといったところだろう。

 それでも、過酷すぎる現実世界でのコニーの暮らしには、同情を通り越して社会への激しい怒りすら覚えるほど強烈なものがあり、理想の社会を垣間見たコニーが、小説の最後の場面で取る、まさに「夢」と「狂気」の果てとしか言い様のない振る舞いにも、わずかだが共感を覚える。本書には続編があるようで、その「HE,SHE AND IT」は、1992年のアーサー・C・クラーク賞を受賞した。強烈過ぎる現実世界のラストが、どんな夢想と妄想の世界へとつながっていくのか。冷戦構造の崩壊やAIDSといった新しい現象を取り込んだ上で、どんな現実と未来を見せてくれているのか。邦訳が待たれる。
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