ちほう・の・じだい


 勝新太郎が死んだ時、大島渚が「カツシンと縮めて呼ばれる役者こそがスターなんだ」と言って哀悼の意を現していたのをテレビのワイドショーで何度か見た。その時に並べて挙げた名前が「バンツマ」であり「アラカン」だったが、彼ら以外にもスターと呼ばれる役者は大勢いたわけで、にもかかわらず「イシユウ(石原裕次郎)」とも「カタチエ(片岡千恵蔵)」とも呼ばれていないところを見ると、大島渚の意見には若干の修正を加える必要があるように思う。「縮めて呼ばれる役者は、一般大衆からただ崇め奉られるだけじゃない、愛され親しまれる真の意味での大スターなんだ」といった具合に。

 縮めて名前を呼ばれるSF作家としては、「ヨコジュン」こと横田順彌が真っ先に思い浮かぶ。なるほどヨコジュンが書くハチャハチャなSFは、緻密な考証と膨大な情報によって読者を圧倒する、コテコテのフルコースを食べさせる高級レストランというよりは、なんでもありのごった煮に驚き呆れながらも楽しみ喜ぶ種類の、例えていうなら居酒屋のような作品が多い。そして一般大衆は、レストランも好きだが居酒屋はもっと好きなのだ。

 ここにもう1人、名前を縮めて呼ばれるSF作家を挙げるとしたら、やはり「カジシン」とこ「梶尾真治」ということになるだろう。ヨコジュンのような炸裂するハチャハチャとは異なるものの、同じように人を楽しませ喜ばせるテイストを持った作家として、カジシンを愛し、カジシンに親しみを持っているファンは数多い。

 例えていうならそのテイストは、縁日の夜店のような、あるいは街角の駄菓子屋のような、懐かしい味わいにあふれかえっていて、読む人をホロリとした気分にさせる。愛され親しまれるという意味では、確かに「カツシン」のように名前を縮めて呼ばれる資格を持った、SF作家ということになるだろう。

 最新短編集「ちほう・の・じだい」(ハヤカワ文庫JA、620円)に収録された作品を読めば、そのことは誰もがすぐさま理解するだろう。冒頭に収められた表題作にしてからが、哀しいけれど優しくなれる、寂しいけれど強い気持ちになれる、そんな読後感を与えてくれる、キラキラと輝く露草のような雰囲気を持った作品だ。

 走って来たバイクを避けようとして、車に跳ねられた主人公が目を覚ますと、街中のいたるところで人々が放心状態で佇んでいた。会社に行くと同僚も上司も誰も彼もが奇矯な振る舞いを繰り返し、無事だった女性も男の目の前でどんどんと惚けていく。

 家に帰った男が見たものは、やはり同じように惚けてただ空を見つめる妻の姿だった。原因も解らず、どうして自分だけが無事でいられるのか悩む男だったが、やがて真相を知り、取り残され解らないまま何かが起こるのを待っていることへの不安に脅えながらも、妻が見つめ続ける空の彼方に思いを馳せて、今を精いっぱい生きている。

 決して明かされることのない不安の原因にやきもきとさせられるが、だからといって「ちほう・の・じだい」には、すべてを明らかにする謎解きの場面は必要ない。起こってしまったことのなかで、妻とそして家族の姿を再び見いだした男の、揺れ動く心の変遷を追いながら、立ち止まり振り返る余裕を持たない忙しい現実の生活のなかで、ふと自分の立っている場所を省みることができれば、それでじゅうぶんだと思う。

 「木曜日の放課後戦士」「時の果ての色彩」「トラルファマドールを遠く離れて」は、カジシンならではの淡く甘酸っぱいテイストをぞんぶんにあふれさせた、愛され親しまれるという意味では筆頭に挙げても良い作品だろう。例えば「木曜日の放課後戦士」では、「ガチャポン」から取り出したバトルスーツで空き地の主導権を争う子供たちの、憎しみ合いながらもどこか相手を慮って理解を示す、打算が周りを覆う前の純粋な心の交流が描かれていて、ラストになんだかジンと来る。

 「時の果ての色彩」は、「タイムマシン」という使い古されたSFガジェットを使いながらも、帰らない時の残酷さを描いて、悲しみに胸を締め付けられる。達観のエンディングに、そこまで割り切っていいのかと少しばかりの憤りも覚えたが、どうしようもない気持ちに胸も裂けんばかりの痛みに苦しんだ男の心が、ようやくにして掴んだ達観だとすれば、まずはその強さを褒めるべきなのかもしれない。

 「ブンガク・クエスト」に「絶唱の瞬間(カラオケ・オブ・デス)」に「金角のひさご」は、どちらかといえばハチャハチャに近い、けれどもカジシンならではのヒネリも加わった佳品たち。まずは「ブンガク・クエスト」。いくらマニュアルと首っ引きで挑んでも、感性も反射神経も追いつかずに玉砕のエンディングを迎える、大人にとってははなはだ難易度の高いゲームを、いとも簡単に操り楽しむ子供たちの能力には、もはや感心するより他にない。

 「金角のひさご」。ぎっちりと詰まっておまけにカビでいっぱいの冷蔵庫の扉を開ける恐怖心は、そこいらのホラーよりもよほどか激しい恐怖に足が震える。誰もが思いつきそうなアイディアを、持ち前の構成力で読者をエンディングまで、それこそ「解っちゃいるけどやめられない」気持ちにさせて引っ張っていく腕前は、30年近いキャリアの最初から備わり、今またさらに磨きがかけられている。

 キャリアを積み重ねて大御所に匹敵する地位を得ながらも、終生大衆との接点を求め続けた「カツシン」のように、縮めて呼ばれる2人のSF作家「ヨコジュン」とそして「カジシン」には、大御所然として文筆活動から遠いたり、別のフィールドに出ていってしまわずに、その愛され親しまれる作品を発表し、永遠にSFの第1線を疾走していって欲しい。


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