チグリスとユーフラテス
Some japanese people did not think that the earth would still exist in the distant future.
They then began to anothear planet. "NINE" by spaceship.


 「皇紀」だなんて科学的な根拠のない数字を持ち出して、2659年の歴史が日本人にはあるんだと威張ったところで、4大文明の1つが発祥した地としての尊称を、4000年の歴史を持つ中国を前にした時、どれほどの意味もないような気がする。そしてそんな中国の歴史ですら、50万年とも言われる人類の登場から数えれば一瞬の煌めきでしかない。さらには生命の誕生、地球の誕生、銀河系の誕生、そして宇宙の誕生へと広げて考えた時、一瞬という言葉すらも大げさに聞こえるくらい、人間の歴史など些末で微細な存在になってしまう。

 科学が進み、宇宙の広さが実感として突きつけられ、想像もつかないレベルへと拡張された時間と空間を認識した時に、思い浮かぶのはたった1人の人間の生涯が、この宇宙においていったいどれほどの意味を持つのだろうか、という疑問だ。それは何も今になって浮かんだ疑問ではない。宇宙の広さを想像力で補うしかなかったた、数千年も昔から偉大な哲学者たちが、やはり同じことを考えて来た。そして人類にとっての永遠とも言える時間が過ぎ去っても、決して解決されはしなかった。相変わらず人間は生きる意味、存在の意義を考えては悩み、惑い、迷っている。

 過去を熟知する歴史学者でも、現代を認知する社会学者でも、未来を予知する科学者でも解けないほどの難問に、SF作家が果敢に挑み、かつ答えに近づこうとした本として、新井素子の「チグリスとユーフラテス」(集英社、1800円)は歴史に刻まれるべき1冊だ。もちろんさしものベテラン作家でも、本書の中で明解な答えは出してくれていない。だが、物語に登場する様々な経歴を持った人々が、自問自答して導き出した「人生とは」の様々な解から、読者は己が感性に応じて、自分に相応しい解を得るなり、自分なりの解を導きだそうとする意欲を掻き立てられる。

 物語の舞台になるのは地球より遠く離れた植民惑星「ナイン」。第1話の主人公となる女性、マリア・Dはある日、入っていたコールドスリープから強制的に目覚めさせられる。見上げて目に入ったのは、少女のように着飾った「ルナちゃん」と名乗る1人の老嬢。聞くうちに彼女はその星の人々がすべて死に絶え、ルナだけが1人残されていたこと、そして「ルナちゃん」はコールドスリープに就いていた人々を次々と起こしては、話し相手にしていたことを知る。

 移民から数百年が経過した頃から、惑星「ナイン」では出生率の低下が大きな問題となり、目覚めたマリア・Dのように子供を生むことが出来る因子を持った人間は、特権階級としてあらゆる面で優遇を受けるようになっていた。だがマリア・Dには子供が出来ず、年下で妹のように遊んでいたイヴ・Eには子供が2人も出来てしまった。特権を与えられた優越感とは裏腹の義務感に苛まれ、錯乱したマリア・Dは重要施設へと押し入って撃たれ、本当に子供の埋めない体となった。

 それでもマリア・Dは、壊死していく子宮を体内に抱えたまま、死ぬのではなくコールドスリープに就き、子供が埋めるような体を取り戻せるかもしれない、未来の医療技術にかけた。だが彼女が目覚めたのは、明日にもも滅びようとする世界、体を直すことはおろか、子供を生んで育てるという彼女の「生き甲斐」が、まるで無駄なものと思えるようになってしまった世界に目覚めてしまった。

 どうせ死んでしまう運命。どうせ滅びてしまう運命。宇宙規模で見たら取るにたらない一瞬の光芒でしかない人類が、だったら生きている意味は何なのか。同じ事を2番目に目覚めさせられたダイアナ・B・ナインも、3番目に目覚めさせられた関口朋美(トモミ・S・ナイン)も、滅び行く運命の目撃者であり体現者でもあるルナから、「人生とは何か」との問いを浴びせかけられる。ダイアナ・B・ナインは惑星管理官としてエリートへの道を邁進しながら、病原菌への耐性を失ってしまう病に罹り、未来に全治をコールドスリープに入った。関口朋美は画家として嘱望されながら半身が麻痺したため治療の可能性を未来に見てコールドスリープに入った。

 そして惑星「ナイン」へと移民する為の船団を率いたキャプテン・リュウイチの妻として、「ナイン」の土を踏み2代目の大統領に就任したレイディ・アカリも、惑星「ナイン」に移り住んだ人々の心の支えとなるべく、コールドスリープへと入った。そして結果は4人が4人とも、馳せた未来への夢を打ち壊される。子供は生めず病気は直らず麻痺はとれず始祖となったはずの母は我が子が終末の淵にいることを見る。

 ショックを覚えた事だろう。残酷な運命を呪った事だろう。人間が生きている意味を無意味さを痛感した事だろう。最後の子供になってしまったルナの、それがコールドスリープから彼女たちを起こした理由だった。

 だとしたら彼女たちの人生は無意味だったのだろうか。人間が生きている意味など本質的に無いのだろうか。コールドスリープから目覚めさせられた4人が4人とも、人生に意味を見出したくても見出す事の不可能な、最後の子供という残酷な運命に憤るルナの厳しい問いかけに、それぞれの答えを見出しつつ、その人生を終えていく。

 人生は子孫を残す事に意味があるのか。その逆で人生とは他の誰の為でもなく自分の為にあるのか。人生とは熱中出来た物さえあれば幸せなのか。人生とは意味ではなくただ勝つか負けるかなのか。やっぱり人生などに意味はまったくないのか。それでいてやっぱり人生に意味を求めてしまう、人間は本質的に愚かな存在なのか。

 新井素子は哲学者ではない。そして歴史学者でも科学者でもなく、希望を抱かせる解も不幸のどん底へと叩き込む解も与えてくれない。各人の各様な人生に対する問いに対して、明確な答えは出してくれない。各人の各様な答えを並べて読者自身に考えさせる。結論などおそらくは絶対に出ない。納得した端から疑問が湧き出す繰り返しに、生きている間はきっと悩ませられ続ける。そして生じた疑問の答えに一瞬であってもたどり着く快感に喜ばせられ続ける。その繰り返しが人生だ。

 意味があってもなくても人生は時間の流れとともに過ぎていずれは必ず終わる。残りの時間が自分には、あるいは貴方にはどれだけあるのかは解らないが、少なくともこれだけは言える。今この瞬間に自分という、あるいは貴方という存在は確かに存在していたという事実。宇宙が永劫で時間が永遠であっても、「いなかったこと」には絶対にならないという事実。些末で微細な拠り所であっても、これだけはという揺るぎのない事実を今は拠り所にして、新井素子のくれた様々な手がかりの中から、残りの人生に意味があるのか、それとも無意味かを考えていこう。


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