TEENAGE STORIES

 便利なものでインターネットのショッピングサイト「アマゾン」は、店頭に並んでいたりする海外の写真集が割引価格で売られていたりして、おまけに配達もしてくれるから重たいのを我慢して持って帰もない。だから本屋で気に入った写真集を見つけると、タイトルだけメモして自宅に帰ってネットで検索、あって安ければ即注文、といった流れになるのだけれど、この写真集には通用しなかった。

 東京は渋谷のリブロに入っている洋書店で見かけたJulia Fullerton−Batten(ジュリア・フラートン・バテン)という写真家の作品集「TEENAGE STORIES」(ACTES SUD刊)。気になってさっそく探したもののネット上では見つからない。写真家本人のサイトは見つかって、そこに並べられた女の子たちが不思議な空間に屹立する写真群の雰囲気に改めて打たれ、たまらなくなって結局は元の書店へと買いに戻る羽目となった。

 ネットだけで買い物をするよりは、たまにであっても途中のスペイン坂を登りパルコ前を歩くことで、現実世界に生きる女の子たちを触れはしなくても見て雰囲気を感じてみるのも悪くはないけれど、求めようとしている求める写真集が写真集だけに、リアルに対する積極性を説いてもあまり言葉に説得力はなさそうだ。

 さて「TEENAGE STORIES」。英語もフランス語も読めない人間には、書かれてあるビブリオグラフィーもプロフィルもまるで無縁の代物ながら、作品だけは写真という表現方法であるため、言葉とは無関係に鑑賞できるから有り難い。まずはタイトルにもなっている「TEENAGE STORIES」というプロジェクトに属した作品群。日本でいうなら「東武ワールドスクエア」という古今の建物がミニチュアサイズで建造されたテーマパークにも似た場所を舞台に、相対的に巨大に見える少女たちが闊歩したり、横たわったり池に浮かんだりした写真の連作になっている。

 気になるのはその舞台。「東武ワールドスクエア」ではないことは確かで、どこの国のどんな場所にある施設で、何のために運営されているのかを知りたいものながら本文が読めない以上は仕方がない。CGによる合成でも、このためにわざわざ作られた施設でもなさそうな辺りから類推して、そういうものがあるんだということを理解しておくに留めつつ、背後にミニチュアを置いて屹立する女の子というモチーフから考える。

 トンネルへと向かう車が走る道路の脇にうつぶせになって死体のように転がる少女もいれば、ショッピングセンター前の駐車場のような場所をカートを押して犬を連れ水着姿で歩く少女もいる。教会の前の広場で大人びた服装を着てかがみハイヒールの裏についたガムを剥がそうとする少女。客船が寄せる桟橋の向こう側にたたえられた海を模した水に仰向けになって浮かぶ少女。

 そのビジョンからは、少女という無垢で健気と見なされがちな存在の、その実態は無垢ゆえに傍若無人に振る舞っては、あらゆる権威を超越していっているんだということを、表現しているような印象が浮かぶ。世界を見下ろし、眺め愛で慈しみ、気に入らなければひとまたぎして踏みつぶす。世界を懐におさめて、いつでも破壊へと導けるものこそが傲岸不遜で鳴る少女なののかもしれないと、そう語っているのだと言えば言える。いささか強引かもしれないが。

 あるいは世界を掌中にしているようで、それらはすべて架空であって真の世界へと出ることを拒絶した少女の永遠性を衝く作品と言えるのかも。そのニュアンスは他のシリーズの、森や街やプールや空港に出入りしては、佇んだり横たわったりする少女のシリーズに顕著に現れる。少女が持つ可愛らしさを感じさせながらも、そのどこか作り物っぽいシチュエーションから少女という存在が醸し出す、儚さのようなものがにじみ出している。かくも少女とは冒すべからざる存在なのかと思い知らされる。

 1人でもインパクトのある少女が、増幅したかのように1つの場所にうごめくシリーズも写真家は作っていて、その一部も写真集には収録されている。写真家の個人サイトにある作品も含めて見た印象は、暗い場所にデパートのエレベーターガールにも似た案内嬢が幾人も幾人も立って増幅していく、やなぎみわの初期の作品に近いものがある。

 やなぎみわの場合は都市における女性の役割の、画一的で模倣的な様をカリカチュアライズしたかのような雰囲気があった。ジュリア・フラートン・バテンの場合はもっと単純に、集団としての少女たちの放つ異形ぶりといった辺りにフォーカスが合わさっているようにも見える。

 それが如実なのが写真集には入っていない、セーラー服にも似た制服姿の少女たちの集団が写った作品で、その画一的で硬質な雰囲気に、日本の学生服の集団が外国人からどう見られているのかを伺える。不気味で不思議な存在、といった具合に。

 いずれにしても、少女を捉えて少女について考えさせ、感じさせる写真たちが収録された写真集は、「萌え」だの何のといった簡単な言葉で少女を区切り、もてはやしおとしめる日本人にとって少女の本質を見つめさせるきっかけになりそう。可能ならば収録されているもの以外の作品も含めて眺めてみたい写真家だが、他に作品が出ている様子はなし。日本に来る可能性も乏しそう。

 今はいずれその時が来ることを願いつつ、「東武ワールドスクエア」のような場所がどこで、何をねらいに撮っているのかを英語なりフランス語の文章から少しづつ、読み解いていくしかなさそうだ。日本語版の刊行? 夢のまた夢。勉強だ。


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