ただ、それだけでよかったんです

 同じ学校の中で生徒が誰かに虐められ、あるいは虐めて生まれる惨劇が描かれた物語を読んで思うのは、それが架空の物語だからと安心して良いものなのか、それとも現実を映したものである以上、起こっている惨劇が世間に幾らもあって、犠牲が積み重なっていると嘆き憤るべきなのか、といったものだ。

 どれだけそうした、虐められ虐めて起こる惨劇を描いた小説が書かれ、漫画が描かれ、映画に撮られても、いっこうに減らずなくならない惨劇に、フィクションだからと安心して良いはずはないといった焦燥が浮かび、現実を映しているからといってまるで意味を持たないといった諦めも浮かぶ。

 だからどうしたら良い? そんな問いかけにスパッと答えられるだけの知恵も勇気も力もないけれど、ひとつ、こういう可能性はあるのかもしれないと、そんな思いを浮かばせてくれる物語が、松村涼哉の第22回電撃小説大賞受賞作「ただ、それだけでよかったんです」(電撃文庫、550円)だ。

 「菅原拓は悪魔だ」という書き置きを残して、クラスでも人気者の岸谷昌也という少年が自殺した。浮かんで来たのは、菅原拓が昌也を含めたクラスでも人気の4人組を虐めていたという噂。そして、それを裏付けるように拓は以前に昌也の顔を水筒で殴って怪我を負わせ、昌也の母親から責任を追及されて学校のクラスをすべて回って土下座をしてみせ、謹慎も受け入れいていた。

 昌也を拓から守ろうとする動きもあって、これで大丈夫かと思われていた矢先、昌也は自殺して、拓がいったい何をしたのかに注目が集まる。遺書もあって「悪魔」と名指しをしていた以上、きっと昌也に拓が何かをしたに違いないと誰もが決めつける。けれども。拓は本当に昌也を自殺に追い込んだのか。それ以前に昌也を拓はいじめていたのか。

 弟が自殺した真相を探ろうと、昌也の姉の香苗が事情を調べて、拓に話を聞くまでにたどり着く。昌也の姉とは知り合いらしい沙世という女性も調査に絡んで、拓の心情や昌也の家庭の事情などが浮かび上がってくる。けれども分からない。どうしたら昌也は自殺にまで追い込まれるのか。そして見えてくる。ある構図が。

 世間が強く認識していたものとはまるで違ったその構図を、想像するのは困難だとは思わない。拓や昌也が通っていた学校で取り入れられている「人間力テスト」なるもので、最下位に近い場所で喘ぐ拓のような、誰からも関心を持たれず、誰とも協調しようとしないマイナーな人間、どちらかといえば虐めるより虐められる側にいそうな人間が、学校でも人気の天才な昌也を、その仲間をどうやったら虐められるのか? といった着想から、そういう構図がうっすらと感じ取れる。

 だから、読み終えてまず思ったのは「やはりそうきたか」といった感嘆だった。それをやりとげた彼はとっても強い人間なのかもしれないとも思ったけれど、それが悲劇を招く前に誰かが、誰もがちょっとづつでも分かり合おうとしなかったのかといった憤りも同時に浮かんだ。

 誰であっても人の死は哀しいし、悔しい。死んで当然の人間なんていないし、殺されても仕方がない人間なんてあり得ない。生きて命を繋いでそこで悔い改め考え直して自分を取り戻す。そういう未来を、そうなる可能性って奴を見せて欲しかったけれど、それがかなわない物語なら、どこで踏み間違えたのかを感じ取って現実の世界でそうはならないように考えるしかないのかもしれない。

 行き違いから生まれた憎悪を逆転させて生まれた恐怖、それを取り払って穏やかな空気へと変える“儀式”を早くに行うための道筋。途中に邪魔がはいっても、それを捌いて平穏へと至らせる道筋。あったはずだ。大人もそこに参画すべきだった。それができた大人もいたはずだ。そう思うと、やはり誰よりひとりの大人の優柔が、生んだ悲劇だとと言えるのかもしれない。

 学級階層化の話は読んでいて胸苦しくなるものが多く、決して好みではないけれど、この「ただ、それだけでよかったんです」は、弱さに溺れてひたすらに逃げ惑うというより、弱さに隠した強さを見せることで、反撃の可能性を見せてくれるところにある種の快哉を得られた。悲劇に見舞われた人間が、そうされる流れにあったことも、死ななくて良い人間が死んでしまう惨劇がもたらす不快感を、少しは減殺してくれる。

 もちろん、そうなって欲しくなかったという残念さも強くある。憤りとか嘲笑とかをそうした可能性の探索に切り替えることで、胸苦しい気持ちを抑えて暴かれる真相を理解し、差し伸べられる手の可能性を想像して、前向きさを取りもどす。そういう意味で、学校階層から生まれる悲劇や惨劇を扱った暗いカタルシスの物語とは違った、青春の風を感じさせてくれる物語と言えるだろう。


積ん読パラダイスへ戻る