偉大なる、しゅららぼん

 「鴨川ホルモー」が京都に集う学生たちに長く伝わる裏の対決を描いて若い熱さを感じさせ、本屋大賞にノミネートされて評判となり、万城目学という作家の名前を世の中に知らしめた。そして「鹿男あをによし」では奈良に来た教員が体験する不思議な出来事を描き、日本の命運と絡むスケール感で驚かせて直木賞にノミネートされ、万城目学という名前を一気にメジャーへと押し上げた。

 さらに「プリンセス・トヨトミ」で、大阪という場所に誰もが感じている、自主独立というか唯我独尊というかわがまま勝手というか、とにかくどこか独特の雰囲気を、過去からの経緯も交えて描いて歴史を力業で捏造して、やはり直木賞にノミネートされてさらにメジャーな作家へと上っていった。そんな万城目学の作品ながら、そうした賞争いに絡まずもしかしたら不評なのかと思わせた小説。それが「偉大なる、しゅららぼん」(集英社、760円)だった。

 決して面白くなかった訳ではない。琵琶湖の畔に古くから暮らす日出家の人間には、他人の心を操る力があって、それを使って地元を支配しつつ、代々力を受け継ぎながら栄えてきた。日出涼介という名の少年も、分家の出ながら生まれたばかりの赤ん坊のときに、竹部島で行われた儀式で強い力を発して本家に見込まれ、15歳になったときに力をより強くするため、本家に修行に出ることになった。

 そこで出会ったのが日出淡十郎という同じ年齢の少年で、本家の跡取り息子ということもあってか、涼介以上に強い力を赤ん坊のときに発揮して、将来を嘱望され周囲を恐れさせていた。そんな扱いがあったからか、本家としてお城の中で暮らしていたことが影響したか、淡十郎はお殿様然とした態度で涼介をあしらい、それこそお供の下僕か何かのような扱いで、涼介に自分と同じ赤い学生服を着せて高校に引っ張っていったりする。

 そんな高校には、日出家のライバルとも言える棗家の広海も通っていて、淡十郎たちとの間に緊張が走ることも。淡十郎が恋をした少女が広海に心を寄せていたこともあって、淡十郎は棗家を琵琶湖のそばから追い出したいと思い、策を巡らせたりもしたけれど、そんなさなかに事件が起こる。日出の家の者でもなければ棗家の者でもない何者かが、両家に対して牙を向けてきた。

 描かれるのは力を持ってしまうことへの恐怖であり、持ってしまったからこそ生まれる深い心の傷であり、力を使って何かを成し遂げようとすれば起こる悲劇であり、海にも近い広大な湖の畔という場所だからこそ起こる不思議な出来事。それぞれがテーマとして深いものとなっていて、読む人の興味を誘う。

 もっとも、京都の闇であるとか奈良と鹿島を繋ぐ地脈であるとか、大阪に伝わる裏の国家であるといった、大きすぎる嘘を楽しませてくれたこれまでの作品と比べると、琵琶湖の畔という地域の周辺で起こる旧家の小競り合いは、読む人にどこかスケール面で地味さを感じさせてしまったのかもしれない。それが小説の面白さを、広く伝えることをじゃましていたのだとしたら、そうした印象は2014年3月公開の実写映画版「偉大なる、しゅららぼん」でひっくり返る。観ればこんなに面白い物語だったのかと改めて気づかされる。

 物語の舞台となる琵琶湖畔にそびえる、国宝の彦根城をロケーションに取り込んだ映画は、そこに日出家の者たちが暮らしているという設定を像によって示すことで、文字で読むよりも大げさな感じをそこに醸し出す。けれども繰り広げられているのは、どこか地方の小都市であり、ともすれば湖のそばの田舎といった雰囲気を持った地域での、天下国家とはほど遠い勢力争い。そんなスケールの小ささ、状況の滑稽さを映像によって描くことで、そこはかとないおかしさを観る人に与える。

 ちょっぴりの虚勢。それでも当人たちはいたって大まじめというギャップのあるキャラクターたち。それをもっとも体言している日出家淡十郎を、映画では濱田岳という役者が、体型から喋り口調から見事に演じきっている。憎たらしいけど憎めない。嫌らしいけど嫌いになれない。そんなキャラクターとしての淡十郎がスクリーンの中に現れる。

 ラストに近づいたシーンで、自分は自分でいたいという気持ちの健気さ、自分を奪われてしまうことへの恐怖が、登場人物たちによって語られ、ついつい涙も浮かんでくる。姉思いで自分も大事。そんな普通の少年がつきつけられた巨大な力、けれどもある意味ではたいしたこのない力を相手に、何を考えどう振る舞おうとしたのか。叫びだしたかったかもしれない。そんな震える気持ちを、強い精神力と高いプライドで押し隠して生きてきた淡十郎のその寂しさを、濱田岳という役者はものの見事に演じきる。

 そんな淡十郎のお供として扱われる涼介を演じた岡田将生も、見た目は良いものの本家の殿様に臆している小心者といった役柄を演じきって、浜田岳との対比を見事に見せていた。淡十郎の姉で、とてつもない力を持ちながらも、理由があってずっとお城に引きこもりながら、場内を白い馬に乗って歩き回っているグレート清子を演じた深田恭子の赤いジャージ姿も、美しさと強情さと儚さと不思議さを合わせ醸し出している。

 お城の周りや市街地を、赤いジャージの清子が馬に乗って歩いている姿が、別にクローズアップでもなく、普通の風景として中距離から遠距離で撮られている、そのカメラアングルが日常に交じった滑稽さというものを映し出している。そういう意図で撮ったのだとしたら、なかなかに巧い。

 映画ならではのスペクタクルなシーンはないでもないけれど、やっぱり日常に現れるちょっぴりの不思議がくすっとしたおかしさを感じさせ、たいしたことでもないのに思いっきり背伸びしている姿が、頑張っているなあという賞賛と、でもやっぱりたいしたことないよねという苦笑を同時に感じさせて、微笑みの中に拍手したくなる。実写「偉大なる、しゅららぼん」はそんな映画になっている。

 ストーリーはほぼ原作どおり。そして文章で感じたキャラクター像とはまた違った造形を、役者たちの後援によって楽しめる。読んで観てまた読むと、最初に読んだときとでは作品への印象が大きく変わることになるかもしれない。それぞれが主張し補い合って存在する最良のメディアミックス。漫画版もあるようなのでそれも含めていろいろ読んで、自分にベストの「偉大なる、しゅららぼん」を探してみるのも面白い。


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