処刑列車


 殺す意味を探ることで、生きている価値を探ろうとした男を描いた「死者の体温」(河出書房新社、1600円)に続く大石圭の小説「処刑列車」(河出書房新社、1800円)は、殺された意味を問う者共を描くことで、この世に生かされている価値が浮かび上がる。

 朝のラッシュアワーをやや過ぎた東海道線。全車両2階建ての列車「快速アクティー」が、湘南近辺の鉄橋の上で突如停止した。運転席と車掌席の両端でそれぞれ運転士と車掌が射殺され、犯人たちは乗客を一部の車両へと押し込んだ。複数の犯人らしき者たちは、反抗する乗客に容赦なく拳銃から弾丸を打ち込んだ。

 犯人たちは一切の要求を行わず、ひたすらに乗客を殺し続けた。席を譲ることを嫌がった乗客を射殺し、オーディションに行きたいと騒いだ女を射殺し、携帯電話をかけるなという命令に従わなかった少女を殺した。娘を助けたいなら飲料水を取りに行けと命ぜられた女性は、言いつけを守り娘と一緒に解放された。しかし恋人を助けたいなら飲料水を取りに行けと命ぜられた男は逃亡し、ために恋人は殺された。戻らなかった男の代わりに、さらに何人もの乗客が射殺された。

 家族を助けたいから命を差し出すと言った男の英雄的行為など一切認めず、犯人は男を射殺した。妊婦であろうと盲目の人間であろうと、一切の躊躇いもなく犯人たちは殺して行った。取材に訪れたリポーターもカメラマンも約束など無視して射殺した。列車に乗り合わせたというだけで、気に入らないというだけで殺されていく乗客たち。そんな犯行に及んだ理由として犯人たちは、そろって「彼ら」という存在を口にする。

 「彼ら」とは一体何なのか。最初は見えなかった「彼ら」の存在、そしてその意志が明らかになるに連れ、都合によって右にも左にも振れる、生命に対する人間のエゴがくっきりと浮かび上がって来る。殺した者に意味はあっても、殺された者には意味など無関係。ただ殺されたという事実のみが怨念となって、生きている者へと襲いかかる。

 生きるために殺す、あるいは生かすために殺されるのだったらそれは意味のある死だ。生き残る者にも、殺された者にも納得できる部分はあるだろう。けれども「5分の2」という無味乾燥な数字が、人間の生と死を分ける確率となって突きつけられた時、人間は果たして粛々と運命を確率に委ね、無意味な死を選ぶことが出来るのだろうか。

 我が身の秀でた部分を声高に叫び、確率を5分の4、5分の5へと引き上げたいと願う人もいるだろう。1000年ない人生ならば、70年が1日へと縮まってどれほどの違いがあるのかと諦観し、5分の0を受け入れる人もいるかもしれない。だが、どちらにしても生と死の、いずれかに意味を、無意味だという意味も含めて見出そうとするあがきがそこにある。無意味になんか死ぬことなんて、人間は絶対に出来はしない。

 だからこそ。5分の2という確率でしか生と死を分けられなかった者共の、生と死の意味を問う叫びは身に響く。どうしてなんだ、どうして自分だったのだというあがきが胸を打つ。安易な死など与えるべきではなく、また安易な生など与えるべきではないのだと強く思い知らされる。

 共に脅えていた乗客が、突如拳銃を取り出して別の乗客を射殺するシチュエーションはなるほどホラーに等しい恐怖を身に及ぼす。駆け引きが通用していた間の犯人たちと乗客のやりとりも、心理ゲームとなって読者の心を震わせる。虐げられていた人々が事件に呼応して悪意を浮かび上がらせる展開も、社会派ミステリーのような緊張感を醸し出す。表紙に描かれた血塗れの列車と血塗れの銃弾は、そのままパニック・ホラーの装いだ。

 けれども、全編を読み終えた時に突きつけられるテーマの何と重たいことか。カタルシスの皆無なエンディングによって得られる読後感の何と胸に悪いことか。生きていて、そしていつか死ぬだろうこの人生そのものをこそ、諦めや逃避などといった安易な思いによる途中下車を認めない、ノンストップ・トレインなんだと強く認識させられる。読み始めたら手は止められない。読み終えれば心も止まらない。覚悟して読め。


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