水平線のぼくら 天使のジャンパー

 やりたかったことをやり残して逝く悔しさを、実はまだ知らない。だって生きているから。生きていさえすれば何だってやれるから。やってもいないことをやれなかったと思い込むのは自由だけれど、それはやり残してしまうのとは全然違う。やらずにおいてやれなかったと悔やむのは、やりたかったのにやれなかった人たちにとても失礼。生きているならやれることを精一杯にやるべきだ。

 仁木英之の「水平線のぼくら 天使のジャンパー」(角川春樹事務所、1500円)という小説は、そんな思いにさせてくれる物語だ。舞台になっているのは鹿児島県の海上に浮かぶ奄美大島。沖縄県と並んで今もいろいろと伝承とか呪術とか残っていそうな土地柄ということもあってか、冒頭で主人公の桐隆文という高校2年生の少年が、誰も立ち入れそうもない崖の上から疾走して空へと飛んでは、海へと消えた少女を見てしまう。

 そのことを友人の中洋介に告げた隆文は、「くいむん」を見たんだと言われる。母親が巫女の一種のユタをやっているだけあって、洋介は島の伝承を信じていた。それに比べればどこか半信半疑だった隆文だったけれど、帰省先で奄美大島ならではの不思議な儀式に参加させられ、そして戻った名瀬の下宿先でひとりの少女と出会い、「くいむん」が現れたと驚く。高橋麻巳という名のその少女は、美しくてそして鍛えられた肉体を持っていて、何より崖から飛んで海に消えた少女にそっくりだった。

 もっとも、目の前に現れた麻巳は海に消えたりはせず、同じ下宿の離れに住んで、そこから隆文と同じ高校へと通い始める。どこか本土で暮らしていたのが移り住んできた模様。そして麻巳は、隆文や幼なじみの鼎英見が所属している水泳部へとやって来て、あろうことか英見に水泳の勝負で挑んで勝利し、ノルディック・スキー部を創設してしまう。

 どうやら本土では若い頃からノルディック・スキーの選手として活躍していたらしい麻巳。ネットで調べるとそういう経歴が出てくるけれど、それだけにどうして今、雪の降らない奄美大島へとやって来たのかが分からない。家庭の事情か何かかがあったのかもしれない。詳しいことは分からず、本人にも聞けなかったけれど、それでも習い覚えたノルディック・スキーへの思いだけは強くあったようで、無茶な勝負を挑んで勝利をつかんでノルディック・スキー部を作ってしまう。その意気を受けて隆文や英見、そして幽霊水泳部員だった洋介も麻巳に協力するようになる。

 南の島のノルディック・スキー部。まるでジャマイカがオリンピックのボブスレー競技出場を目指す実録映画「クール・ランニング」のスキー版のような展開に、周囲も沸き立ちメディアの興味も誘って結構な話題となっていく。といっても季節はこれから夏。そして奄美大島という土地柄で、すぐに雪の上でスキーなんて出来はしない。だったらと麻巳は、どこかからスキー板だけでなくローラースキーの道具も持ち込み、それを使って隆文たちは練習をするようになる。

 ただやっぱり目標はジャンプ。隆文は土建屋をやっている親戚にジャンプ台を作って欲しいと頼みに行くけれど、当然のように怒鳴られ断られるかと思ったら、競技で表彰状を2枚とってくれば考えても良いと言われる。ならばと隆文は英見に洋介、そして麻巳を連れて山口県で開かれたローラースキーの大会へと向かい、入賞を目指そうとする。

 やりたいことにむかって突き進む青春ならではのストーリー。とても爽やかで楽しげに見えたその物語が、クライマックスになって一気に様相を変えるところがとてつもなく面白い。いや、面白がっている場合ではない、むしろ青春のあでやかさとは正反対の切なさと哀しさ、そして優しさと愛おしさがあふれ出てきて心を見たし目を濡らす。

 そうだったのかという驚き。そうだったんだなあという哀情。知っていればもっと何かが出来たのかというと、かえって思いに熱がこもって空回りしてしまったかもしれない。同情とか憐憫といったものとは無縁の、仲間たちだからこそぶつけ合えるまっすぐな思いが隆文を麻巳へと協力させ、麻巳を仲間たちの中で弾ませた。

 だからこそ迎えられたその瞬間。嬉しかったのだろうか。まだ悔しかったのだろうか。まったく悔しくなかったということはないだろうけれど、やりたかったのにやれなかったことをやりぬいた充実はあっただろうし、それをやらせてもらえた嬉しさもあったに違いない。そんな麻巳が得た気持ちは、そのまま自分たちも得ようと思えば得られるものだと思いたい。やらずに逃げるよりやって転んだ方がいいのだから。

 それからもうひとつ、やりたいことをやれない者へ何かをしてあげることの大切さも感じたい。会社の業務を放り出してジャンプ台の建設に協力した土建屋の社長は、過去に複雑な経緯を引きずりながら、それでもというかだからこそ、麻巳に手をさしのべようとした。そんな心意気に倣いたい。

 読み終えて悲しみは当然に浮かぶし、悔しさもやっぱり浮かぶけれど、それでも嬉しさを感じてもらったのかもしれないという思いが救いになる。そしてこれからの人生をどうやって生きていくべきなのかという道も得られる。若くても老いていても、残された時間が多くても少なくても、生きてさえいれば僕たちはまだやれるのだと知ろう。やり残して逝く悔しさを味わわないよう、精一杯に生きていくのだと感じよう。


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