STAY
ああ 今年の夏も何もなかったわ

 時を立ち止まることは誰にも出来ない。すべては想い出となって記憶の彼方へと積み重なっていく。楽しかったこと。悲しかったこと。淋しかったこと。嬉しかったこと。そのすべてが人とともに時を流れ、いずれ人とともに消え失せてしまう。

 けれども想い出は無価値じゃない。過ごした時間はその人にとって永遠のたからものとなって心のなかで輝きを放ち続ける。面白かったこと。辛かったこと。幸せだったこと。腹立たしかったこと。そのすべてが人の一生をなんらかの感慨で彩り、消え失せる瞬間まで満たし続ける。

 あの初雪が降った朝の校庭にまっさきにつけた足跡の心地よさ。あの向かい合った昼下がりの喫茶店で最後の言葉を告げられた切なさ。あの日曜日。あのクリスマス。あの喧嘩の夜。あの永訣の朝。永遠ともいえる時間の一瞬、数十億もの人のたったひとりの想い出でも、ひとつとして無駄なものはない。

 あの夏休み。それぞれの学年に1回しか経験できない貴重な時間に、5人の女子高生たちがもらった想い出が、西炯子のコミック「STAY ああ今年の夏も何もなかったわ」(小学館、505円)の中に積み重ねられている。描かれる彼女たちのエピソードの、どれもが青春にありがちなものばかり、だったりする。

 たとえば玉井由美の場合。進学を希望する短大のサマースクーリングに応募した彼女をひとめ見た、同じスクーリングに参加していた少女たちは、すらりと高い身長にきりりとした目と眉毛、短く揃えた髪はまさに二枚目としか言いようのない由美に憧れの眼差しを贈ってもてはやす。由美もそんな声を受け、母校の演劇部員としての役柄もあって男装の麗人然と振る舞う。

 そんな由美に対してひとり、刈川えりだけは騒がずむしろ由美に憧れ近寄って来る少女たちに冷や水を浴びせる憎まれ役を買って出る。その意図を最初はつかみあぐねていた由美だったけれど、自分にストレートなえりの姿に父母の期待、周囲の期待を自分の意志と思いこんでいた心を開き、最終日のパーティーで本当の自分を開放する。

 それから山王みちるの場合。演劇のワークショップに出た先で知り合った男子と本屋に行き、海を見に行き「自作のエロ小説を深夜ベッドでほそぼそと」読む趣味を明かし、父祖が仕事にして来た法律家の道を行くと決めていた男子を相手に、「銀河鉄道の夜」で溺れたカムパネルラを水辺で待つ父の気持ちを話して聞かせる。

 どこまで相手を意識していたのかは分からないし、単に「銀河鉄道の夜」の解釈をめぐって話のあいそうな男子に興味を持って話をしたかっただけなのかもしれないけれど、漫然と過ごすことになったかもしれない夏休みにひとつ、後でデートだと友人に教えられて気づいた想い出を、みちるは心に積み重ねることができた。

憧れの俳優に会うため、そして俳優の所属する劇団のテストをこっそり受けるために東京へと行き、偶然にして華やかでけれども苦い想い出を得た宮薗真保の場合。才色兼備で、宇宙飛行士になりたいと真顔で言う堅物に見えながら、小学生の時に男子2人と約束した河童に合うことを夢見続けていて、それがいよいよ実現するかもしれないと期待を膨らませた佐々貫リカの場合。

 姑との折り合いが悪く東京に出た父親と離れ、子供のような母親と、弟と2人の妹と暮らしていて、しっかりものとして気を張りつめさせて家事に弟妹の世話に頑張っていたけれど、何くれとなく気に掛けてくれる演劇部の顧問の松木先生に知らず惹かれ、抑えていた気持ちを先生に向かって爆発させる樋高洋子の場合。どんな場合も当人たち以外の人にとっては、しょせんは遠い物語でしかない。

 けれども彼女たちのそれぞれにとって、何もなかったと自嘲する夏休みであっても、過ごした時間はそれぞれに何らかの感慨をもたらし、記憶の層を形作っている。心を開き足を踏み出し社会を感じ、自分を理解し他人を知ってそれらを想い出として積み重ねる。そんな様が当人たちではない人にも、一瞬の時がくれる想い出の大切さを気づかせる。

 5人が勢揃いする最後のエピソード。それぞれの夏休みにそれぞれが積み重ねた想い出が、同じ演劇部に所属するお互いの関係をちょっとだけ、もしかするととてもたくさん変えてより深く強くしたような雰囲気が漂う。行く、と決めた洋子を囲んで花を散らして「忘れない」と誓う女子高生たちの決心の、底を固めた夏休みの想い出への羨ましさが沸き上がる。

 時を立ち止まることはできないけれど、時は心に留まり続ける。今、この瞬間にも新しい想い出が時とともに積み重なり続ける。何もなかったなんて嘆かない。何も起こらないなんて諦めない。消え去る瞬間までの時間を無駄にせず、しっかりと生きよう。女子高生たち5人の姿にそう思う。静かに、けれども強く思う。


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