捏造の科学者 STAP細胞事件

 毎日新聞社の科学環境部に所属する須田桃子記者による、「捏造の科学者 STAP細胞事件」(文藝春秋、1600円)を読んで浮かんだのは、優れた科学者たちが自信満々に信じて話しているのだから、少しくらい記者の側に素養があっても、というより素養があるほど優れた科学者たちの優秀ささが分かるため、その言を鵜呑みにしてしまい、言われるがままに報じてしまうのも仕方がない、ということか。

 大学院の理工学研究科で修士課程を終えた物理学の専門家、という記者の経歴は、STAP細胞のような医学や生物学、生命学と直接は結びつかないものの、それでもデータこそが命であって、その積み重ねからロジックを敷き、結果を導き出そうとする理系のスタンスは身に付いているだろうから、結果だけが一人歩きするような根拠の薄い憶測は通用しない。

 だからだろうか、読売新聞が結果として騙された、iPS細胞を使った手術の成功に関する売り込みを、記者はあやしいと感じて記事にせず、結果として捏造であり虚偽だった一件を報じないで済んだ。その判断力がありながら、STAP細胞の報道初期、大勢がその成果をノーベル賞級と讃えるなかで、記者もそれを真実と信じて大いに沸いて筆を走らせた。

 過去、取材して信じるに足ると感じた科学者たちが一様に太鼓判を押した。厳格であるはずの科学者たちがそう言うならと、科学者を知る身として信じない訳にはいかない。そんな思考に至った結果だろう初期の報道を、外野からあれこれ非難することはできない。この記者が所属する媒体に限らず、発表直後の報道が、歓喜に溢れたもの一色に包まれていたとしても、それは半ば当然だったと言える。

 だから問題は、「これは怪しいのでは?」といった話が出始めてから、どういう報じ方へと転じていったかになる。関係者に一切のしがらみがないネットの向こうの世界からは、論文を見て画像をつき合わせ内容を吟味した上で、その妙さを追求する意見が続々と上がり始めた。半ば“身内”とも言える付き合いで科学報道に邁進し、共に科学の進展を夢見てきた日本の報道は、そうしたネットでの懐疑より、ノーベル賞も確実と思われている権威のお墨付きに、しばらくは引きずられた。

 その“共犯”とも言える関係が、あるいはもう少し早く解消されて、対立ではなく対等な意見交換の場へと進んでいたら、事態はここまで長期化し、複雑化するようなこともなく、大切な命が失われることもなかったのではないか。そう考えてしまうだろうし、当事者たちの間にも、そうした忸怩たる思いがあるだろう。

 今回の事態から得られた教訓のひとつは、そうした取材対象者と取材者が、同じベクトルを向きすぎた結果起こる馴れ合いのような関係を、幸福な方面で活かしつつも、決して間違った方向へと向かわせないために何が必要かを、報道に関わる者たちに改めて問い直したことにある。そう言える。

 一方で、未だに強く残る疑問もここで、くっきりと見えてきた。結果としてとてつもなく間違っていた、そこに捏造すらあったと疑われる、というよりタイトルですでに“捏造”という、極めて強い非難の意味を含んだ言葉を使っているこの事態を、当初において、そして非難が出始めからしばらく、その道で広く名の知られた科学者たちに信じさせるに足る何があったのか。疑り深いのが科学者という人種でありながら、初期において誰も疑おうとしなかったのはなぜなのか。そこがどうしても分からない。

 そして、その真相が、究明されたかというとどこか、隔靴掻痒な感じでひとまず幕が引かれてしまっているように見えるのが、どうにももどかしい。想像するならひとつの発端は、山梨大学の若山照彦教授が、理化学研究所にいた時に行った検証実験が、しっかりと成功したという辺りにある。

 実験にかけては世界有数の若山教授がそういう結果を出したなら、信じざるを得ないといった空気が理研の中に立ちこめ、世界的な権威の後押しもあって、信じる気持ちが連鎖的に広まっていった果て、誰も異論を唱えられなくなった。そんな感じだろうか。折り悪しく、そうした研究が多大な予算をもたらす状況も重なって、批判するのが憚れる空気になっていたとも考えられる。あくまでも想像だけれど。

 だからといって、若山教授に責任があるかとうと、当人は実直に監督責任を今なお訴えているようだけれど、それを負わせるのも酷すぎるといった印象も漂う。そもそもが若山教授に託された試料は正しかったのか。そこに誤りはなかったのか。さらに言うなら捏造というか作為はなかったのか。もしそれがあったのなら、いかな卓越した技術を持った若山教授でも、どうしようもないだろう。

 ではいったい誰が、そもそもの試料で誤りなり捏造を行ったのか。それを問い始めれば答えは自ずと1人の人物へと向かうのだけれど、そうした糾弾が今、激しく成されているかとうとそうはなっていない部分に、この一件の不思議で不穏な雰囲気が濃さを増す。

 ベル研究所を舞台にしたシェーン事件にしろ、韓国のソウル大学で起こった黄禹錫教授によるES細胞論文不正事件にしろ、個人の資質への帰結をもって事件の全貌として、幕引きへと持っていった経緯がある。にも関わらず、今回は特定個人をあげつらい、その名を事件に冠するようにならないのはどうしてか? そこにパーソナリティへの配慮があるのか、それこそ某キャスターがいうように“陰謀”めいたものがあったりするのか? 疑えばどこまでもきりがない。

 文部科学省なり文部科学大臣あたりが、事前に発表内容を知っていたらしいという噂。それに引っ掛かるような経済関係の動きがあったのではという邪推。大きな策謀が背後にあるにも関わらず、名誉欲に駆られた個人の糾弾に押し込めてしまうのは無理だという天からの声も被さって、すべてが有耶無耶の中に消されようとしているのか。これも些末な陰謀論でしかないけれど、ここに来てなお揣摩憶測のたぐいが飛び交うくらいに、この事件の全貌がすべて明らかにされたとは言い難い。

 だからこそ記者たちには、何よりこの本を書いた須田桃子記者には、引き続いての探求を願いたい。他にも新聞はありジャーナリストはいても、科学者の心を知り技術に通じてネットワークも持った記者はそうはいない。そういう育て方をしている新聞社はもはや皆無に近い中、しっかりと人を育て、記事を精査して載せることに長けた新聞社と、そこに所属する記者たちだからできる。そう信じて続きを待つ。

 さらにひとつ、浮かんだことを言うなら、この一件の中心にいる人物のパーソナリティでありメンタリティが、いったいどうなっているのかを知りたいということか。世間でSTAP細胞の論文の怪しさが大きく喧伝される前に、例のiPS細胞を使った手術の話を捏造した科学者について、早々に怪しさを指摘したというある研究者が、今回の当事者について「何でもやってしまう人」と喝破していたと本にある。

 それは目的のため、研究で世に何かを問うために経過を無視し、データすら捏造して体裁を取り繕い、結果だけつじつま合わせをして、その場をしのぐことをやりかねない人物だったということなのか。もっとも、それだと、後から山と出てくるほころびへの配慮がまるでない。捏造した経過など途中でするっと忘れてしまい、取り繕って得た結果を正しいものと信じて、そういう風に気持ちを上書きしてしまう精神の持ち主だったのだろうか。

 それもそれで、ひとつの人格研究として面白いけれど、世間の目がそういった方向に行くことはないだろう。今ですら激しい糾弾が起こってないことを見れば、そういう気も浮かんでしまう。それとも本当にあったのだろうか、STAP細胞は。それが成長して人間の形になって研究者たちを操り、あるいは化けて世界を攪乱させようとしている、というSFでありバイオホラー的な落ちをつけつつ、これからの進展へ関心を、改めて向けておこう。


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