葬送のフリーレン

 人魚の肉を食べた女性が不老不死の身となって、それからは何度結婚しても夫は年を取って先に死んでしまう。女性は出家して尼となり、全国を旅して回り800歳になって姿を見せなくなる。日本に古くから伝わり、高橋留美子が『人魚シリーズ』にも取り上げられた八百比丘尼の伝説は、永遠の時を生き続ける苦悩や、そうした苦悩を知らず不老長寿を願ってやまない人間の愚かさを問うている。

 かたや不老長寿の身となり、こなた長くても100年に満たない人の身の2人の間に現れる離別の苦悩。山田鐘人が原作を書き、アベツカサが作画をしている『葬送のフリーレン』(小学館、454円)という漫画にも、そうした悲劇が描かれているのかと思って手に取ったら、少し肩すかしを食らった気分になるかもしれない。

 勇者と戦士と僧侶と魔法使いのパーティーが、10年の冒険を経て魔王を倒し、王都へと凱旋する。一行は讃えられ、王によって広場に彫像も建てられる。ファンタジーでよくある、勇者たちが世界の破滅に立ち向かう物語なら、これで終わりとなる場面から幕を開ける『葬送のフリーレン』という物語は、そうした設定自体が、ひとつの新しい視点をもたらす。

 繰り広げられる“その後”の物語では、ドワーフの戦士アイゼンも人間の勇者ヒンメルも、やはり人間の僧侶ハイターもそれぞれの人生を歩み始める。そんな中でエルフの魔法使いのフリーレンだけは、50年に1度降り注ぐ半世紀流星を見ながら、「50年後。もっと綺麗に見える場所知ってるから、案内するよ」とさらりと言う。

 人間だったら半生すら超えてしまう50年という年月を、明後日のように言ってしまうフリーレンは、見かけは誰よりも幼い少女姿だが、実は勇者のヒンメルも僧侶のハイターも知らない昔から生きていた。「50年も100年も彼女にとっては些細なものかもしれない」というヒンメルの言葉どおり、世界を旅して魔法の収集を続けたフリーレンが、王都へと戻って再会したヒンメルは、頭がはげ上がった老人になっていた。

 「老いぼれてる」とヒンメルに向かってそう言い放ったフリーレンの言葉には、エルフと違って早く年を取り、死んでしまう人間への慈しみや、仲間だったヒンメルに置いていかれる寂しさのようなものはなかった。そんなフリーレンのドライな言動に憤ることなく、受け入れてハイターやアイゼンらと1週間をかけて半世紀流星群を見に行くヒンメルにとって、フリーレンはどのような存在だったのだろう。

 生に限りのある人間でありながら、フリーレンのような不老長寿に固執するような醜さをヒンメルもハイターも見せない。定められた時を生きる人間たちが、それぞれの人生に対する感謝する意識が感じられる。八百比丘尼の物語のような嫉みの意識はそこにない。人として生きる大切さを教わる。

 逆にフリーレンの方に、置いて行かれてしまった寂しさが浮かぶ。「…人間の寿命は短いってわかっていたのに……なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう…」。1000年を生きた魔法使が、ようやく心を動かされたような場面だ。

 そこから20年が経って、ハイターが引き取り育てていた、魔法使いを目指すフェルンという少女をフリーレンが弟子にしたのも、ヒンメルやハイターが人間として寿命に限りがあるからこそ抱く、自分が生きている間に誰かを育てたいという気持ち、誰かが生きている間に恩返しをしたいという気持ちの大切さに、気づいたからなのかもしれない。

 どこか浮き世離れしたところがあるフリーレンと、ハイターから引き継いだフェルン、そしてアイゼンが育てていたシュタルクで繰り広げる旅路は、子供のようにとぼけたところがあるフリーレンの言動や、はるかに年下ながらも母親のようなフェルンのまっすぐさが面白く、コメディのように読んでいける。ずっとそんな調子でいくかと思われた矢先、現れた魔族との戦いになって、フリーレンの過去が浮かび上がる。

 「葬送のフリーレン」。タイトルにも関わる言葉が放たれて繰り広げられるハードな描写が、1000年という時間の重みとなって物語に固い地盤のようなものを形作る。単なるその後では終わらなさそうな、さらにこれからの物語を感じさせつつ、またしても続くのんびりとしてとぼけた展開を経て、どこへと向かっていくのか。先が楽しみで仕方がない。


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