草子ブックガイド1

 本について語るとき、僕たちが語ることは本に書いてある物語なり、情報だったりするものから、分かったり感じたりしたことが多い。時には本の形とか色とか重さについて語ることもあるけれど、それは本の中身からあまり何かを得られなかった場合。だいだいはそうやって得たもろもろを、知ってもらって良さを分かち合いたいからと、その本について語る。

 どうやって語るかは人によって千差万別で、まっすぐにあらすじを話して面白そうだと思ってもらう場合もあれば、出てくるキャラクターの独特さを強調して、そんな面白い奴が出ているならと、手に取らせる場合もある。後者は人気アイドルが出ている映画だから見ておこうよといった誘い方にちょっと近い? でも箸にも棒にもかからない役者ではなくて、しっかり完璧に“演技”している役者を紹介している訳だからやっぱり違うか。

 書き手のプロフィルに迫って、その経歴からどうやってこの本が生み出されたのかを紹介する場合もある。ひろく世間に流布される似たような本と並べて、だから今こういう本が出たんだと語る場合もやっぱりある。よく分からないけれども脱構築、という方法で語ることがずいぶんと前に流行ったっけ。そのやり方はわからないけれども、そういう方法が持てはやされたということは、読み手だけでなく、聞き手にとっても良い本についての語り方だったんだろう。たぶん。

 でも聞く方としては、やっぱりそれがどんなことが書かれてある本で、どんなキャラクターが出ていて、そしてどれだけ面白いのかを真っ直ぐに語ってくれた方が、きっとその本に興味を持てる。それは、玉川重機という漫画家による「草子ブックガイド1」(講談社、695円)に出てくる、草子という少女が目の前にある本について語る時の語り方。それを聞いていると不思議と、読んだことがある本でもまた読みたくなるし、そうでない本も手にとって読んでみたくなる。

 青永遠屋という名の古書店にやってくる少女は、いつも店主に黙って本をカバンにいれて持って帰ってしまう。いってしまえば万引だけれど、その後で少女は読み終わった本を返しに来る。おまけにその本に感想文をしたためて挟んであって、店主はそんな彼女の文章のファンになってしまい、次にどんな本を読んで、そしてどんな感想文を書いて、それを戻してくれるのかを楽しみにしてた。そして今、少女が読んでいるのがデュフォーの「ロビンソン漂流記」。店主はいったいどんな言葉がつづられるのかが気になっていた。

 本当はいけないことと知りながら、本を持って帰ってしまうくらい、どうして少女は本が好きになったのか。草子という名の少女の父親は、画家を目指していたものの売れず、その日暮らしで借金漬けの酒浸り。そんな夫に愛想を尽かして草子の母親はずいぶんと前に家を出て、パトロンを得て版画家として成功していた。家は荒れ、学校にもあまり友達のいない草子にとって、1番のともだちだったのが図書館にいっぱいあった本。それを読めばどんな世界にも、どんな時代にも連れて行ってくれて、どんな人にも会わせてくれるからと、楽しみにして読んでいた。

 古本屋から本を持ち帰って読むようになっていたのもその延長。幾つかはまだ返さないまま、母親が残していった本といっしょに自分の部屋の本棚にいれてあった。ところがある日、金に困った父親がその本を見つけて古本屋に売り払ってしまった。悲しむ草子。そして売り先が、自分のよく行っていた青永遠屋だと知って、無理を承知で売られた本から母親が残したものだけは取り戻したいと訪ねていった。

 憤る青永遠屋で助手をしている青年を横に、店主は草子が書いてくる感想文が気にいって、もっと読みたいと草子に告げた。待っていた「ロビンソン漂流記」についての感想文も、草子がロビンソンになったらどんな暮らしをするのかを書きながら、島でひとり生きるロビンソンが考えたこと、そして自分が何をしたいのかが分かったことがつづってあった、とても独特のものだった。本が好き。それが改めて分かって店主は、草子を咎める替わりに、感想文を書いてくれることを条件に出して、いっしょに本を楽しんでくれる仲間として草子を受け入れる。

 そこから始まる草子の本のナビゲート。図書館の活用に困っていた司書教諭が、本好きの草子の存在を知って、彼女に本を紹介してもらう受業を試みとして実施しようとする。そこで草子は、プレッシャーを感じながらも乗り越えて、トルーマン・カポーティの「ダイヤのギター」という短編を紹介する。刑務所に入った2人の男の姿を通して、自由について考えさせられる物語を、最後までは語らずその途中までの経過を語って、キャラクターの存在感を知らしめ、中身に興味を持たせて教諭の試みを成功させる。

 版画家として個展を開いた母親との再会という場面では、父と母がまだ仲の良かった時代に読んでいた、中島敦の「山月記」を紹介して、誰にでもある内なるケモノの存在を示して母親を諌め、父親を諭してみせる。何という早熟。そして深淵なる読み。そこに書かれたことを自分の体験と重ね多くの体験になぞらえて、その身に染みさせる。

 こういう読み方をたぶん、昔は誰もがしていたのに、ついつい今は横とか後ろとか斜めから見て、自分という存在を大勢の中に位置づけるために、本を利用するような読み方をしてしまう。そんな時代に、改めて本との向き合い方を考えさせらてくれる物語。版画のように細かく描き込まれた漫画は、それでも優しげで前衛性によって目を遠ざけるようなことにはならず、むしろ柔らかいタッチで物語の世界へと引っ張っていってくれる。

 だんだんと自分の居場所を見つけていく草子の表情が、どんどんと明るくなっていく姿を見ると、本を読むことの大切さと、それ以上に多くの人たちの中に入っていく大切さというものを感じさせられる。古書店の助手の助手として田舎にある民家へ本を受け取りに行く話では、草子が媒介となって、売り主の女性が夫に対していだいていたわだかまりを解きほぐす。

 すっかり明るくなっても、そして大勢の仲間を得ても本は読み続けるのか、という心配おあるけどいったん、本にのめり込んだ人はそこから離れられないもの。きっとこれからもいっぱいの本を読んで、そしてためになる感想文を書いてくれるだろう。それを読んで本を読み、それを語って本を読ませることが出来たら、僕はとても幸せなのだけれど。


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