空をサカナが泳ぐ頃

 やり残していることはないか。諦めてしまっていることはないか。

 そんなものはないと、言い切れる人がどれだけいるだろう。夢がかなう人なんてそうはいない。諦めてしまったことがない人なんて絶対にいない。それが人生だ。

 だったらやりなせとは言わない。誰だって諦めたくて諦めた訳じゃない。家庭の事情。自分の都合。いろいろな理由が夢を阻む。そうやって選んだ新たな道が、天職となる場合もある。でも。

 本当に諦めなくてはいけかなかったのか。やり直すことはできないか。あと1センチ、手を伸ばせば届いたのかもしれないのに、そのための努力をしなかった。後悔とまではいかないけれど、ずっと心にひっかかって、見えない不思議を目に見させる。

 第17回電撃小説大賞でメディアワークス文庫賞を受賞した、浅葉なつの「空をサカナが泳ぐ頃」(アスキー・メディアワークス、590円)で、主人公の中津藍という青年が見た不思議が、まさにそれ。学生の頃にカメラマンになりたいと思いながらも、自信が持てないまま道をはずれた彼は、今はしがない情報誌で制作の仕事に就いている。

 撮ってきた料理の写真が悪いと、筋肉大好きな女性の上司になじられる日々に疲れ、それでも抜けられないまま惰性で生きてきたある日。ふらりと立ち寄った喫煙室に置いてあった、誰かが土産で買ってきたものを置いたらしい、見知らぬ煙草を吸った藍の目に、空中を泳ぐ魚が見えるようになった。

 現実の映像にデジタルの映像を重ねて見せるAR(拡張現実)という訳ではない。別に特殊な眼鏡などしていない。モニター越しに見ているのでもない。その目にしっかり、空中を泳ぐ魚が映る。真っ先に考えられるのは幻覚。吸った煙草が大麻か何かのドラッグで、藍に魚の幻を見せたのかもしれない。あるいは仕事に疲れた果てた心が見せた妄想。どちらもありそうな理由だ。

 もっとも、心理的な理由を探りに病院に行ったところで、まるで相手にされなかった藍。だったらドラッグかと、その方面に詳しそうな店をたずねて回っても、一向に要領を得られない。おまけに友人と、そして会社に出入りしていた宅配便の従業員までもが、同じ煙草を吸った途端に、同じように空を泳ぐ魚が見え始めた。

 やっぱり煙草が原因か。何がいったい含まれているのか。騒ぐ彼らの前に、ほどなくして原因となった人物が現れ、煙草の秘密も特定される。そして恐るべきことに、そのままでは視界いっぱいに魚が埋まった時、死んでしまうと脅される。

 どうすれば魚は見えなくなるのか。そもそもどうして魚が見えてしまったのか。そんな探索の旅路から、生活に疲れていた藍の周囲に繋がりが生まれ、それぞれに悩みをかかえていた友人や、宅配便の従業員にも未来が開けていく。自ら閉ざしていた扉を開く勇気の大切さを教えられる。

 青春とは迷うこと。そして迷い続けること。その果てに得られる道が、たとえ夢とは外れていても、迷った分だけ納得も得られる。少しでも夢に手がかかれば、得られる開放感はなおさら大きいものとなる。

 今に諦め、自分から投げてしまっている人たちに捧げる物語。止まらないで前へと向かえ。ひきこもらないで他人とつながり切り開け。そう諭す。

 怪しげなオカルトグッズの店にいる、関西弁を話す黒人のアルバイト店員や、道ばたをリュック背負って歩き、目印となった雑誌を持った人間に、怪しげなグッズを売り歩く女性。人形を愛でて飾っては、看護婦に怒られている心療内科医。そして、青年があこがれ続けるカメラマン。中津藍を中心に、絡んでくるキャラクターたちが誰も特徴的で楽しめる。

 そんなキャラクターたちの絡み具合も、実に巧妙で絶妙。あれが誰でこれがそうでといった具合に、点だった関係性がだんだんと露見し、線で結ばれていく様を楽しめる。そんな人々と出会い、ヒントを得て謎をもらい、探し歩んでいくPRGのように引っ張られて、展開を追っていけるのもいい。

 そして何より、物語で貫かれる、今を変えようとする気概への称揚が心地いい。やってやれないことではないのに、やり残していることがあるなら、今こそやってしまえ。あとちょっとの努力を諦めてしまっていることがあったら、やり直してみよう。そんな気にさせられてさあ、あなたはなにを始めるか?


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