セイぼく

 猫と犬とではだんぜん猫派なのは、放っておいても結構てきとうに育ってくれるし、触ればふわふわとして暖かで、顔の上に立たせると肉球が顔面にあたってぷにぷにと気持ちいいから。これはちょっと譲れない。

 もっとも世の中には、猫のまるで人間になつこうとしない気ままさよりも、犬の人間になついてエサとかねだったり芸を覚えてくれる方を尊ぶ人も結構な数いて、猫派と勢力を二分していたりする。

 猫では誰かに襲われた時にまるで役に立たないじゃん、犬なら吠えてかみついて守ってくれるじゃん。そんな意見もあってそれはそれで重要なことだけれど、なかには散歩の時以外は寝たままで、まるで役に立たない犬もいるから断定は難しい。小さすぎて脅威にならない犬だっている。

 だから犬の大切さというのは、人間にとって友達になってくれるというところ、なのだろう。何かを与えれば返してくれるし、だから向こうが与えてくれたことに対して返してあげようという気にもさせられる。

 相互依存が可能な生き物。共存が可能な動物。だから犬は、人間の人生に深く絡んだ存在として、ドラマや小説にも登場する。傑作だって数多い。そんな傑作の列に新たに加わったのが、久保寺健彦の「空とセイとぼくと」(幻冬舎、1500円)だ。

 父親とホームレスをしていた少年は、父が死んだあと孤児院に入れられたもののなじめず逃亡。公園に戻って、前にいたときに別のホームレスが見つけたのを可愛く思って世話していた子犬のセイと再会して、ホームレスが死んだあとはそのセイを連れて日本中を渡り歩く。

 何年も経って戻ってきた新宿あたりの公園で、少年は小さなギャング団を率いていたリョウという男に気に入られて、リョウがギャング団をやめて歌舞伎町でホストになると決めた時に、誘われていっしょにホストを始めるようになる。

 犬といっしょに暮らしていたから「ポチ」という名をつけられた少年。教養もなければ字だって満足に書けないため最初は苦労するものの、犬のような従順さと、女性の発情期を察する犬のような嗅覚で一躍人気者になって、ホストクラブでも幹部クラスにまで出世する。

 ブレイクダンスの才能にも目覚めて、町中で練習していた仲間たちとチームを組んで出場した大会で目立って、雑誌の取材も受けるようになる。もっとも、それがよからぬ事態を招いてしまった。

 ポチをひいきにしていた女性をつけねらう男にみつかり襲われ逃亡。けれども、そんな間も犬のセイとは別れることなく、お互いをいたわり合って生きている。どちちが一方的に依存するというのではなく、お互いがお互いを求めて必要としているような関係は、猫と人間とではまず構築は不可能だ。

 クライマックスでポチがダンスの大会に出場した時に、いっしょに踊ったセイの姿を見るともはや2匹は、あるいは2人は誰も入り込むことの出来ない、絶対的なパートナーになっていたのだと思えてきて、そういう関係を築けたことへの羨ましさが湧いてくる。

 人間よりもはやく老いる犬とは、ぜったいに別れを避けられない。失った悲しみを味わう覚悟が必要だ。けれども注いだ愛に見合った喜びを、犬は人間にもたらしてくれるし、人間だって犬の一生に何かを与えている。

 すばらしい「生(セイ)」だったと共に思える関係が築けたことを、別離の悲しみを越えて喜び、抱き続ける素晴らしさを味えるのなら犬派でいるのも悪くない、のかもしれない。

 ホームレスとして毎日をどうやって生きていくのか、何をどこでどうすれば食べ物にありつけるのか、といってあたりの解説もあるし、ホストとして激しい競争を勝ち抜いて女性たちから人気者になるノウハウも書かれてあって、いろいろと勉強になる。

 これから100年に1度の大不況になろうかという時代。失職したらホームレスとなって暮らすなり、ホストになって稼ぐなりするための指南書にもなっている。手元にあればもしもの時もご安心。そして利口な犬が1匹いれば、どんな時代も生きていけるというものだ。


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