死体泥棒

 死んでしまった恋人の死体を、葬式の会場から盗み出す。殺人でも傷害でもないけれど、禁忌には触れていそうな罪を犯してしまえる心理があるとしたら、それはどうやって育まれていくものなのか。

 ごく平凡に生きているように見えた大学生の“僕”が、そんな大それた犯罪に手を染めてしまう瞬間から始まる、唐辺葉介の「死体泥棒」(星海社FICTIONS、1200円)という小説は、僕のそれまでの生い立ちと、今おかれている境遇、それから、死んで死体になってしまった少女の生涯を綴っていくことで、人が禁忌の壁を乗り越え、罪の意識を包み込んでまで、何かをしでかしてしまう心の作られ方を見せてくれる。

 大学生の僕は、先輩に誘われ入った劇団で、先輩が問題ごとを起こしてしまい、自分も居づらくなって行かなくなってしまう。大学からも遠ざかって、ひとり茫洋としていた公園で出会った大道芸人は、ピエロの格好で風船をひねり動物などを作りだし、子どもたちを喜ばせていた。

 その姿に惹かれた僕は、半ば弟子入りしてピエロに付いて回っていたけれど、ある日、いつものようにアパートを訪ねると、ピエロが病気か何かで死んでいた。途方に暮れていたところに現れたのが、そのピエロの娘だという少女。聞くと体の不自由な母親と2人暮らしをしていて、その母親が脳梗塞で倒れたとき、ピエロは母親の看病もしないで、家から逃げ出したという。

 そんな父親を、当然のように母親は今も毛嫌いしてるけれど、娘の方は連絡を取り合っていて、その日もアパートを訪ねてきて、僕と出会った。僕と少女は、だんだんと仲を深めていく。2人暮らしの家計を支えるために、女性が手っ取り早く大金を稼げる仕事にも身を染めていた少女は、僕との交流もあってか、すっかり諦めてた自分を自分を取り戻していく。

 それとともに僕自身も、居場所を見つけたような気持ちになっていって、そして結んだある約束。その日になれば、新しい日々が始まるのかもと期待していたのに、少女の突然の死によって、その日は永遠に訪れなくなってしまう。

 僕は動く。リサイクルショップで大型冷蔵庫を買ってきて、アパートに置き、葬儀場からアパートまで連れて帰った少女の死体をを、その中に寝かせて少女との約束を果たそうとする。

 少女が大好きだったからら盗み出した。そう言葉で語ってしまうと簡単なことのようだけれど、それをすることによって失う社会的なポジションとか、悲しむことがいるかもしれない親のこととか、思うとなかなか動けない。それが罪を犯すということだ。

 ただ僕には、親を気にして生きる気持ちを削り取られていくような過去があって、それでも賢明に生きようとしている気持ちを、逆なでされるような出会いがあって、向こう側とを仕切る壁を低くしてしまっていた。そんな奥底に流れる心理があり、絶対に守りたいものが崩れさてしまった経験があって僕は、一線を踏み越えてしまった。

 理解され得ないことではない。家庭教師先の少女に冷蔵庫の死体を見られても、僕はそれを糾弾されなかった。娘を盗まれ怒り嘆いているはずの少女の母親に僕は赦され、改めて行われた葬儀で親戚たちに僕は受け入れられた。罪は罪。法律の基準でそれは変わらない。心理的な規範でもやっぱり禁忌に触れている。けれども、それらを踏み越えてしまった行動の、心理のすべてが非難されるべきなのか、そうでないのかは、簡単には決められない。

 必然だったか否か。それが大切なのだ。

 小説では、死体を盗み出して傍らに置くことが、本当に愛なのかという問いが別に投げかけられ、僕を戸惑わせる。劇団ともめ事起こして逃げながら、また僕の前に現れた先輩が示すのは、どこまでも刹那的な愛。その瞬間が楽しければ良いという愛の形は、僕が今まさに陥っている、死んでしまった存在への愛を認めない。

 違うと抵抗しようとする僕は、けれども少女が献体によって、眼球も内臓もすべて奪い取られた抜け殻の姿だったと気づいて、それを少女だと認めるべきかを迷う。そこに肉体があることが愛の成就なのだとしても、それは彼女なのか、そうではないのか。

 存在をこそ尊ぶならそれは、ただの死体であって、そこにいなくても実は良い。そこにいるならそれは完璧な、命こそなくても姿だけは完璧な彼女でなくてはならない。非実在を否定しながら実在ですら曖昧なその姿を、それでも愛の対象とするべきなのか否か。僕は迷い悩む。

 罪を犯す心理の段階を探り、必然を求める同時に、愛を成す心理の絶対を探る物語。そんな「死体泥棒」を読んで、あなたならいったいどうするか。そしてそれを選ぶのか。罪を問われよ。愛を聞かれろ。


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