死体を愛した男

 「今なら半額」という甘い言葉にだまされて、今はなき「リーダーズ・ダイジェスト日本語版」という雑誌を、3年ばかり定期購読していた。確か小学校から中学校に上がるあたりか、中学校にいた間だった。大人向けの雑誌をよくもその歳でと、今になって思うのだが、書いてある内容は実録あり、小説あり、エッセイありと盛りだくさんで、合間に挟まれるジョークや漫画も面白く、毎月届くのを楽しみにしていた。

 なかで今にいたるまで強い印象を残した記事が、「セオドア・バンディ」と呼ばれる男の犯した殺人にまつわる記事だった。実のところはこの記事が、本当に「リーダイ」に載っていたものか、はっきりと記憶している訳ではないのだが、たぶんそうだろうという仮定のもとに話を進めると、アメリカの街(当時はワシントン州シアトルという地名にピンとこなかった)で、金髪の長い髪を真ん中で分けた美少女ばかりが、次々と失踪し、死体となって発見されるという事件が起こった。後に犯人として「セオドア・バンディ」という男が捕まったが、彼は弁護士の資格があるからと、自分で自分を弁護すると言って周囲を驚かせ、マスコミにも頻繁に登場して、派手なパフォーマンスを繰り返している。確かそんな内容の記事だった。

 なぜこの記事が印象に残ったかといえば、雑誌に掲載された少女の写真がみんな美人だったこと、殺人事件の犯人が堂々と自分をアピールしていることに意外感を覚えたこと、ちょうど横溝正史のブームが来ていて、殺人事件に興味が湧いていたことなどがあげられる。つまりはただの興味本位に過ぎず、殺人犯へのシンパシーがあったのかと聞かれれば、たぶんなかったと答える。

 今でこそ書店の店頭に行けば、「FBI心理捜査官」をはじめアメリカの犯罪実録物が山と詰まれているが、10年前はそういった本はほとんどなかった。「サイコパス」という言葉も、最近流行の「ストーカー」という言葉も一般には使われていなかった。その意味でも「リーダイ」の記事は珍しく、「セオドア・バンディ」の名前を強く記憶に刻み込んだ。最近になって「連続殺人犯物」のフィクション、ノンフィクションが続々と登場して来ても、「あのセオドア・バンディはどうなったのか」について、詳しく語られた本が見当たらないことを、内心忸怩たる思いでながめていた。

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 「FBI特別捜査官」などの本を出し、最近はグラハム・ハンコックの「神々の指紋」で当てた翔泳社から「死体を愛した男」(ロバート・D・ケッペル&ウィリアム・J・バーンズ、戸根由紀恵訳、2400円)という本が刊行され、帯に「テッド・バンディ」と大書きしてあったのを見たとき、心の中で「本命到来! 真打ち登場!」と快哉を叫んだ。殺人事件の実録物が出版されたことを喜ぶとは、なんたる不謹慎かと思われるかもしれないが、三つ子の魂百までもの例に漏れず、思春期に読んで強い印象を持った犯罪の、その結末に触れることが出来るという喜びに、正直打ちふるえていた。

 「テッド・バンディ」という文字に続いて、帯には「全米でもっとも有名な連続殺人犯とその事件を担当した若き刑事の15年間にわたる宿命の対決」とある。雑誌「Bart」の96年6月24日号に、20世紀に発生した大量殺人の一覧表が出ていて、殺害した人数でいえばヘンリー・リー・ルーカスの60人以上(オティス・トゥールとの共犯で199人以上)や、「サンセットの惨殺魔」ことダグラス・クラークの7−50人(ずいぶんな開きがあるが)、アトランタで黒人少年ばかりを狙って殺害したウェイン・ウィリアムの38人など、バンディを上回る事件がアメリカで幾つも起こっていたことが解る。

 にも関わらず、バンディが「全米でもっとも有名な連続殺人犯」と言われる理由が、「死体を愛した男」の中で、彼を追い続けた著者のケッペルがつまびらかにしているように、逮捕されてから15年近くを生き延びたこと、その間にマスコミを使って自らの存在をアピールし、あまつさえ別の連続殺人の捜査に協力するそぶりを見せて、人々の関心をかったことがあげられる。

 「死体を愛した男」によると、1984年の10月のある日、ワシントン州で発生した連続殺人の捜査に追われていたケッペルの元に、1通の手紙が届けられた。「差出人の住所はフロリダ州死刑囚官房。差出人はテッド・バンディ。私は驚きで声もでなかった」(267ページ)。

 バンディが協力したいと行って来た「グリーン川連続殺人事件」は、やはりアメリカの犯罪史上に残る連続殺人だ。先の「Bart」の表にも「The Green River Killer」として紹介されており、殺害した人数は45人以上、小説や映画「羊たちの沈黙」のモデルにもなったため、日本ではたぶん、バンディよりも広く一般に知られている。

 連続殺人犯の心、連続殺人犯のみが知る−バンディの助言を受け入れた捜査当局に、そういった意図があったことは明白だが、シアトルでの事件で初めてバンディに関わり、彼が死刑を求刑された後も、まだまだ明るみに出ていない犯罪があると確信していたケッペルは、バンディがグリーン川連続殺人事件の犯人像を語り、犯罪の様を想像し、犯人をいぶり出す方法を教授するなかから、バンディ自身の犯罪にのぞんだ心理を探り、バンディの心の中に隠蔽された未だ明るみに出ていない犯罪を探り出そうと懸命になる。

 第6章以降、本の半数以上を費やしているのは、バンディとケッペルとのグリーン川連続殺人事件にかんするやりとりであると同時に、バンディ自身の心を探るための激しい心理戦の応酬だ。犯罪者の心を確かに犯罪者であるバンディは熟知して、グリーン川連続殺人事件でも、その後に幾つも発生する連続殺人にも有効な助言を幾つも与えた。

 しかしケッペルは、犯罪者の立場に立ってその心理を「理解」し「共鳴」することに、強い抵抗感を覚えている。あくまでも犯罪を追い犯罪者を糾弾する捜査官としての立場に立って、連続殺人犯の心理を滔々と語ることでその犯罪を正当化しようとするバンディに哀れみの感情を抱く。あと2日で死刑が執行されるというその日も、ケッペルは追求の手をゆるめない。眼前の男が2日後にはこの世に存在しないと解っていても同情はしない。

 「死体を愛した男」の中でケッペルは、いたずらに「正義感」を振りかざしてバンディを追いつめてはいない。「リバーマン」についてしゃべり続けるバンディを前に、静かにその言動を見つめ、描写しているだけである。しかしそこから、バンディや、闇に消えたままの「The Green River Killer」ら、連続殺人犯の異様さ、矮小さ、卑屈さが浮かび上がって来る。

 「死体を愛した男」という邦題は、「THE RIVERMAN Ted Bundy and I Hunt for the Green River Killer」と随分な開きがあるが、とりあえずは読者の興味をひく。読み始めればとたんに引きずり込まれること必定。読了後はいっぱしの連続殺人評論家になっているだろう。

 ただし。連続殺人犯にシンパシーを感じ、バンディの暗い情念のブラックホールに吸い込まれそうになっても、懸命に踏みとどまって欲しい。それこそが著者・ケッペルの一番不本意とするところだろうから。


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