死者は黄泉が得る
DEATH BELONGS TO THE DEAD

 最初に言っておこう。西澤保彦の「死者は黄泉が得る」(講談社ノベルズ)を読むために、元ネタとなった山口雅也の「生ける屍の死」(創元推理文庫)を読もうと考えている人がいたら、絶対に止めた方が良い、と。

 トゥームズヴィルの辛気くさい館を舞台に巻き起こる驚天動地の顛末を知った後で、「死者は黄泉が得る」の超絶推理を読み通すのには、相当に辛いものがある。「生ける屍」という存在が「生ける屍の死」には出ているんだな、とまあそれくらいの予備知識で軽く「死者は黄泉が得る」を読み流した後で、本命にして絶対の頂点、至高にして究極のSF的設定ミステリ「生ける屍の死」を読むほうが、得られる感動はずっと大きいはずだ。逆なら得られるのは失望・・・かもしれない。いやホントの話。

 もちろん「死者は黄泉が得る」は、SF的設定ミステリに1つの新しいページを加えた作品として、それなりの評価を与えられる作品だろう。「生ける屍の死」にヒントを得た西澤保彦が創造したのは、死者をよみがえらせる機械。その中に入ればどんな死体でもたちまちのうちに綺麗になって蘇る、しかし蘇った死体に記憶を与えるために、別の機械の中に放り込む作業の最中に、他の蘇っていた「生ける屍」たちも、同じ機械で記憶をリセットされるという。

 西澤作品ではお馴染みの、SF的設定を約束事、作中の言葉で言うなら「コモンセンス」として理解した上で、そうした前提が存在する世界で繰り広げられる様々なエピソードを楽しんでいくパターンは、今回も見事に作品を統率している。最後に明示されるのも、あくまでも事件の謎だけであり、SF的設定はあくまでも設定に過ぎず、地球に引力があるとか大気があるとかいった程度の「約束事」として、作中ではなんら合理的な説明はなされない。SFだったら「何故」となる部分を省略してしまうところが、西澤作品をしてSFではなくミステリと認識させるに至る、大きな理由となっている。

 さて、同じようにSF的設定ミステリとして高い人気を集めた「七回死んだ男」や「人格転移の殺人」で、ともに得ることができた新鮮にして爽快な気分を、どうも「死者は黄泉が得る」では得ることができなかった。その一番の理由がラストの合点のいかなさで、あるいは読み手の力量が不足して、作者の真の意図を見抜けないだけなのだとしても、もう少しわかりやすい説明はできなかったのだろうかと思ってしまう。「考えろ」と読み巧者のミステリファン、パズルファンは言うだろうが、物語派の人間にとっては、あまりにも意外でかつ説明が見あたらない(と今も思っている)ラストシーンは、苦痛でありまた心残りでもある。

 「死者は黄泉が得る」は、どこか人里離れた場所にある洋館で、「生ける屍」の存在に気づいて調べに着た人間が「死者」たちによって殺害される場面を「死後」の章、またかつての同級生たちが次々と謎のトレンチコート姿の者によって殺害されていく場面を「生前」の章として交互に繰り返し、最後に両者が「クロスオーバー」して事件の謎をつまびらかにする構成を取っている。「生前」が時系列的に並んでいくのに対して、「死語」の章は最初に6人いた「死者」が章が進むに従ってだんだんと減っていくようになっていて、これは「生前」と「死語」がその境目でぶつかりあうのかと思わせるが、あの西澤保彦がそんな当たり前のことをするはずはなく、やはり相当に凝った、けれども妥当性のあるストーリー運びを見せてくれている。

 読み手の力不足が1因となって働いているのだとしても、退廃的なくせに妙にエネルギッシュな展開でぐいぐいと引っ張っていってくれた「生ける屍の死」のようには、「死者は黄泉が得る」には感情を移入することができない。西澤保彦の意図がそういった感情移入を許さない、純粋なパズラーとしての小説づくりにあったのだとしても、やはり物語の存在する「生ける屍の死」を上位に推し、「死者は黄泉が得る」で「生ける屍」という概念を認識した上で、そういった概念を前提に築き上げられた「生者」と「死者」のあるようでじつはないかもしれない境目を、感じとって欲しいと言いたい。寿司でもエビは最後、だよ。


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