記憶(こえ)る。

 角川文庫キャラクター小説大賞で第1回の奨励賞を「コハルノートへおかえり」(角川文庫、520円)で受賞した石井颯良が新しく出した「知らない記憶(こえ)を聴かせてあげる。」(角川文庫、640円)を、テープ起こしに関係ありそうな仕事をしているライターや記者は読むべきだ。そのまま起こすにしてもノイズを減らして整えるにしても、話された言葉をどう文字にして書き起こすのか、誰のために書き起こすのか、なんのために書き起こしているのかを問い直されるから。

 勤務先で先輩の失敗を押しつけられて居づらくなり、辞めて今は叔父が住んでいた家に半ば引き籠もり気味になって暮らしている丹羽陽向という青年。誰も信じられない彼のところに、絵本作家だった叔父が遺したテープというものが届く。もう書けなくなって代わりに病床で吹き込んだものらしい。けれども陽向はそれを聴けなかった。

 傷。いなくても一緒だと言われたような会社での出来事と、絵本の主人公がいなくても良いと言われていることが重なって、最後まで聴いていられなかった。そこにチラシが舞い込む。音谷反訳事務所というところがあってテープ起こしを引き受けているという。ならばと出向くとそこにいたのは久呼という名の着物姿の美人だった。

 外にチラシが撒かれていることを知らなかった様子で、どうやら彼女の知人らしい男性が企んだことらしかった。とりあえず話は聞いてもらえたものの、なぜかテープ起こしは引き受けられないと断られた。それをするのは陽向自身だと言われ、それが出来ないから持ち込んだんだと一悶着。そこを彼女に仕事を流している編集者の調臣が取りなし、陽向の久呼への挑発めいた言動もあったことから、久呼は自分と一緒にテープ起こしをするよう陽向に言いつける。

 逃れられず叔父が絶筆を吹き込んだというテープを聴く羽目となった陽向。そしてテープ起こしを続けていく中で感じた最初と途中からの違和感が、やがて陽向にテープの声に込められてい、た情報以上の感情めいたものの存在を気付かせる。テープ起こしはただの情報の文字かではない。そう感じて陽向は、自分もそんな驚きと感慨の側にいたいと久呼に弟子入りを志願する。

 最初は見習いで、そして本格的にアルバイトとして働くようになって陽向は久呼が抱く恐れのようなものに気付く。それは彼女の過去と関わる話。陽向のテープを起こそうとしなかった理由もそこにあって、才能はありそうでも苦衷を抱えている女性の痛みを感じさせ、そこからどう抜けだせばいいのかといった模索をさせる。2人して暗闇から抜けだそうと足掻く物語だとも言えるだろう。

 テープ起こしという“作業”が持つ意義も問われる。ライターなり記者なり編集者に重要な部分。まるっとノイズも含め訳すか、すぐに記事執筆に取りかかりやすいよう整えるか、等々依頼者の属性や目的を類推する所作がテープ起こしには求められるということだ。

 そして、どこまで踏み込むべきなのかも。ミュージシャンにライターがインタビューする場に同席することになった陽向と久呼。そこで、録音が止められてから2人が交わした会話が陽向は気になった。けれども、久呼は録音してあること以外は起こさずとも良いと言う。陽向は同席した場でオフレコだった部分も含め、文字に起こして渡したいと考える。

 職分という意味からなら軍配が上がるのは久呼の方だろう。けれども、読者のためなら? あるいは対談をしたミュージシャンとライターのためなら? どちらが正解なのだろうと考えさせられる。結果としてその部分は使われないかもしれない。それでも何か役に立つかもしれない。そこまで踏み込むことの是非が、テープ起こしという仕事、そしてインタビューという仕事に絡んで問いかけられる。

 インタビューもして録音もして、それを自分で起こして自分で端的にまとめて書く新聞記者のような仕事では、フィニッシュとしての記事に使われる必要な部分が抜ければそれで良いため、テープ起こしの作業も一言一句のそれこそため息まで書き取るような厳密さを必要としない。

 これが久呼のようなプロの反訳者は声を起こすときの濃い薄いを探りつつ、相手にとってどこがベストなのかを探ってそして、相手が求めるものを渡さなくてはならない。そうした濃淡の判断も、反訳をする人によって違ってくる。テープ起こしと一口にいっても奥が深く、幅も広いものだといったことが分かる。

 陽向もだから最初は戸惑い、そしてずっと迷っている。そんな彼が自分の思いだけをぶちまけ久呼を戸惑わせるような部分、一本気でそれでいて劣等感もあり巧くいかないと叫び怒鳴る態度が鬱陶しく感じられもする。ただ、それはどん底に喘いでいたからで、久呼と知り合いいっしょに仕事をすることで、少しずつ落ち着きを取り戻していく。利口になっていく。

 要領が良くなり小利口さが見えてくるといったものではない。最善のためにベストを尽くす理知が育まれる。そんな陽向の成長と、久呼の少しだけ殻を割って外に踏み出す様を通じて、反訳に限らずあらゆる仕事に向かう姿勢というものを学びたい。


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