島津戦記

 新城カズマの「島津戦記」(新潮社、2200円)は、島津義久、義弘、歳久、家久という、戦国時代の薩摩に生きた島津氏の4兄弟にスポットをあてた小説という概要から、血の絆で結ばれた4兄弟が切磋琢磨し、時に対立もしながら島津を戦国の世に生き延びさせ、薩摩を幕末まで続いて明治維新を成し遂げる大名家へと繋いでいった戦いを、スペクタクルに描いた歴史巨編だろうかと感じて手にとったら、おそらくは間違う。

 人物を中心に人情の線を繋いで歴史を描いて惹きつける、司馬遼太郎を筆頭にした歴史小説を物語る方法とは正反対に、当時の世界経済を左右した銀を軸に置き、それを価値づけて差配する政治を土台に置きながら、その上に心を持った人を乗せて思考させ、行動させて生まれていく歴史の流れの、ほんの片隅を切り取って描きつつ、そこを窓のようにして世界の動勢を見せる。そんな大技の炸裂にいったい誰に感情を添え、その成長に自分をなぞらえ読んでいけば良いのかと、戸惑う人も少なくなさそうだ。

 もっとも、世界は人間だけで動くものではない。人が生きて物が動けばそこに経済というものが必ず生まれ、それを組織だって管理する政治というものが必然的に生まれてくる。というよりむしろ、経済がなければそこに歴史は紡がれず、動きもしないのだという認識を、改めて顕在化してみせた歴史小説が、この「島津戦記」ということになるのかもしれない。

 物語は確かに、島津4兄弟の行動を中心に進んでいく。鎌倉から続く名家を混乱の戦国にあって守り広げ、そして4兄弟の時代へとつなげた祖父や父の下、それぞれが統治の能力を発揮し、戦闘の力を発揮し、そんな兄たちを支え未来を思索する役割をそれぞれに発揮しながら、九州の南端にある地で栄えていく。桜島にひっそりとイスラムの姫らしき女性とその子との邂逅と突然の離別があり、鉄砲の伝来に続くキリスト教の伝来から蚕食があって、そしてイスラムとの対立があり、その過程でイスラムに伝わる宝のようなものが示唆される。

 世界の命運すら左右しそうな宝をを巡る争いが起こって、ファンタスティックな姿を現し、そして、古くから歴史の裏側に面々と受け継がれた女忍者のような存在も登場して、伝奇小説的な容貌も見せてと、娯楽小説的な楽しさをしっかりと味わわせる。その上で、日本という狭い地域での権力争いから目を転じさせ、遠く西欧で、あるいは中東で、そして中国大陸で繰り広げられていた覇権争いへと思いを馳せさせ、そんな世界の激動の中に置かれた小さな島国としての日本に気づかせる。

 とてつもないスケール。それだけも異色な上に、銀という通貨をめぐる争いが背後にあり、人が動き物が動いて歴史も動かされたことが示唆されて、京都をめぐる戦国武将たちの情動に終始しがちな歴史小説を、とてもちっぽけなものに思わせてしまう。

 血気盛んな若者たちが突っ走って歴史が動き、それを見て自分もいつかはを感情を移入して嬉しがることが出きる、司馬遼太郎が描くところの歴史群像劇を楽しむことはもちろん自由だし、娯楽としてそれは正しいことだろう。けれども、人の熱い情動だけでは絶対に歴史は動かないし、作られない。誰もが経済を見て政治に絡めながら考える、その関係が存在する人の数だけ無限に広がり、複雑に影響しあった先に、ひとつの結果としての歴史が作られるのだと知ろう。

 振り返ってみると、織田信長も張居正もフェリペ二世もキャプテン・ドレークやエリザベス一世も、ほぼ同じ頃に生きて活躍していて、少し前の時代にはスレイマン一世なんかもいたりして、それぞれに世界に覇を唱えようと戦っていたりした、そんな彼ら彼女たちが、経済という世界システムによって否応なく繋がっていたとしたら、そしてそれが行動なり施策にも影響を与えていたとしたら、世界は他にどういう動きをした可能性があるのだろうか。想像するだけで昂奮する。

 織田信長だ羽柴秀吉だ徳川家康だ毛利元就だ武田信玄だ上杉謙信だ島津義久だといった戦国武将たちの覇権争いですら、世界システムの動きの中で見たらどんなビジョンがそこに生まれるのか。そんな歴史小説の新たな可能性について気づかせてくれた1冊でもある「島津戦記」。そして物語は、そうした中から島津4兄弟をとりあえずの語り部として、薩摩を拠点に世界へと網を巡らせ進んでいく。

 どうして信長は敗れ、秀吉が廃れ、家康が覇を唱えて後に鎖国へと至り、その中で島津は命脈を保ち得たのか。関ヶ原の戦いという戦国史における一大スペクタクルの中で、壮絶な撤退戦を演じた島津義弘やその家臣たちの戦いぶりも読んでみたいし、そうした局地戦での勝敗を上から俯瞰するように、日本という国の中、世界という存在の中で島津が存在を許され得たのか、その理由に迫る物語も読んでみたい。果たして描かれるのか、本当の島津4兄弟の戦いは。

 期して待とう。


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