メディアの支配者

 2005年2月から同年4月にかけての、ホリエモンこと堀江貴文氏率いるライブドアによるニッポン放送株買収騒動の時、堀江氏はインターネットというメディアの台頭をバックに大きな変革が訪れていることを、既存の放送メディアなり活字メディアに訴え変わらなくてはいけないと呼びかけ、買収の正当性を訴えた。

 これを聴いた既存メディアの面々が、一様に彼の見解をあげつらって「メディアが分かってない」と批判し「放送コンテンツなどネットで簡単に流せるものではない」と非難してみせたが、そうした受け答えの硬直さが逆に進歩が激しいネットメディアのことを、既存メディアの多くがまるで分かってないんだということを周囲に印象づけてしまった。

 しばらく経ってネットで番組を配信しようと試みる放送局が出てきたが、これなどは堀江氏によるアピールが正しかったことを自ら証明したもの。考えていたものでたまたまタイミングが今になったといいわけしても、そんな彼らがホリエモン騒動の時に何を言っていたかを世間はちゃんと覚えている。メディアの後進性もここに極まれり、といった所だろう。

 もっともメディアの人間が常にそうした後進的で保守的なスタンスだったかというと、実は違っている所にはちゃんとメディアの変化を読んで先んじようとする人材がいたらしい。ジャーナリストの中川一徳が書いた、フジサンケイグループの興亡を歴史的に辿った「メディアの支配者」(講談社、上下各1800円)という大著が、そのことを如実に語っている。

 「テレビ、ラジオという速報機能が徹底した時点で、従来のような紙面を作ってメシが食えると思ったらとんでもない間違いだ」「ラジオとテレビと新聞はこれから五年間ぐらいの間に、コンピュータを中心に不可分な結びつきをしないといけない時代が来る。それをやれるのは人的なつながりから言えば産経だけだ」。

 今年の春にこれが言われたのだったら、特別に進歩的だとは誰も思わなかっただろう。むしろ当然と感じただろうが「メディアの支配者」によれば、この言葉が発せられたのは実に40年近くも昔の1968年のこと。言ったのはフジサンケイグループを作った鹿内信隆という人物で、ニッポン放送とフジテレビジョンのトップに立ち、苦境に陥っていた産経新聞へと乗り込み社長に就任したその時の演説で、この言葉を社員たちに向かって発し、鼓舞したらしい。

 毀誉褒貶ある人物で、後にメディアを私物化して世襲してしまう”汚点”も残した人物でもあるけれど、ことメディアの変化を読む才能には優れていたのは確か。今でこそ普通に世界中に存在する、出版から音楽から放送から何から何までを包含するメディアコングロマリットの概念をいち早く認識し、作り上げようとしたことからも分かるように、こと経営って面ではなかなかの卓見を備えていた。

 何しろ昭和なら43年のこと。人類がまだ月にだって到達していない時代に、コンピュータという存在は例え知られていたとしても、それが何に役立つもので、どんな形をしていたのかを理解していた人は極めて少ない。高速で計算すること以上の使い道なんて誰も知らなかったコンピュータが、メディアにとって大きな核になり得ると、おそらくは直観で掴んでいたのは凄いことだ。

 こういった人物が仮に40年後の今いたとしたら、とうの昔に新聞はネットへと移行し、放送番組も権利処理を済ませした上でネットでガンガンと配信されてはがっぽりと、テレビ局に儲けが転がり込む時代が到来していたかもしれない。鹿内信隆という人物がこれほどまでの卓見を公言できなのは、外部から来て長年培われ積み上げられて来たシステムに依拠せず省みもしないで、現状を認識し未来を見据えた上で最適な道筋だけを言えたから、だろう。

 長年積み上げて来たキャリアを捨て既得権益を投げ出すことになるサラリーマン上がりの人ではきっと、言えもしないし思い付きもしなかったに違いない。故に今、日本のメディアがこれほどまでに遅れ滞った状況に陥っているのだと言える。見渡してみょう。この国のどこにメディアの外部から来て卓越した経営手腕を発揮している人物がいるだろうか。培った利権にしがみつき、柵に縛られた中で中立公正さを失い、ダイナミズムも失って巨大な骸を晒している。

 同様のことは、娘婿で後に3代目の議長となったもののクーデターによって追われた鹿内宏明氏についても言えること。クーデターによって追い出されてしまった以上は、そこに何らかの瑕疵があったと一般には広く思われている人物だが、ことメディアグループの将来って点では「メディアの支配者」によるとそれなりの卓見を持っていたようだ。

 例えば新聞について定数というものがあり、発証部数というものがあってその差異が経営にとって悩ましいことになっている状況を改善しようとした話、「全国紙」であることの価値を維持しつつも内実は「中央紙」として産経を位置づけ、その丈に見合った紙面なり経営を行う効率化を進めようとした話等々、今なお抱える問題に対して10年以上も前に何らかの対策を打とうとしていた節がある。

 産経新聞は2002年に東京方面のみながら夕刊紙を廃止したが、鹿内宏明氏のプランではこれを97年の時点で実施する方針が立てられていたらしい。これもある面は合理化ながらも、紙面としての位置づけを放送なりのグループとの連携も含めたストラテジーの上で実行しようとしていたとのこと。決して収益が厳しくなったからという後ろ向きの発想ではないらしい。関西方面で夕刊が発行され続けている矛盾が彼我のプランの差異を暗に示唆している。

 銀行でそれなりの実績を治め経営のセンスを培っていたから言えたことで、これまた外部から来たってことが、時に専横と呼ばれかねない計画の策定につながったと言えるだろう。果たしてこれらの計画が本当に存在していたもので、実行されれば成功していたのかは分からない。それでも現在、日本のメディア企業が非国際的で非ネット的で非視聴者的な孤高の立ち位置に今、立っていてそれがホリエモン騒動のような事態を引きおこしてしまったっ事実が、メディアを経営することの難しさを現していると言えるだろう。

 そんな鹿内家なきあとで、フジサンケイグループが歩んだ軌跡が今後どこに向かうのかも「メディアの支配者」は示唆している。それは決してバラ色ではなく、むしろ厳しいものとなっているがそうした時に起こったホリエモン騒動が、炭坑のカナリアとして眼前に広がる危機に継承をならす役割を果たし、メディアを変化に向かわせるきっかけとなったかどうか、そして「メディアの支配者」に示唆された暗い道とは違った道を進み始めたかどうか。「メディアの支配者」が名実ともに「支配者」となったか、それとも過去に埋没したか。答えは遠からず出る。


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