生誕

 人はどうしてこれほどまでに”双子の神秘”を信じたがるんだろ。

 確かに同じ顔同じ遺伝子を持った人間がこの世に2人存在する、という事実は普通の人の理解を超えた、なかなかに不可思議な状況なのかもしれない。だがそれが例えばお互いの、音声文字といった有り体の手法を採らない、俗な言葉で言えばテレパシーのような精神的なコミュニケーション方法を取り得るからだという考えは、決して合理的ではない。一見そうは見えたとしても、あるのはおそらく長年を同じ時間で過ごした上に発生する、場の空気を読み合う力のようなものではないかと考えている。

 僕は双子だった。残念ながら一卵生ではなく同じ顔同じ遺伝子を向かい合って過ごす楽しみはなかった。それでも時々は同じ歌を鼻歌で口ずさんでいたり、同じテレビのCMを思い浮かべていた事があった。けれどもそれは想像するに、その場へと至る外的な情報の変遷と、その状況へといたる内的な思考の変化が、同じ過程同じ時間で進んだ結果に過ぎないのではなかろうか。1つ、歳が違っても顔を合わせる機会は大きく減る。そんな兄弟と比して同じ時間を共有する事の多い双子に、ふつうの人には予想を超えた出来事が起こってもそう不思議ではない。

 だからそう、例えば離ればなれになった双子の物語という観点で見ると、松村栄子の「生誕」(朝日新聞社、1600円)に描かれる主人公の桑名丞(すすむ)と、幼い頃に別れたというかたわれとの間に長じてからも採られていた、ように読めるテレビを挟んだコミュニケーションには正直懐疑的だ。遺伝形質がテレビを好むようにプログラミングされていたというのなら別だが、現実として起こるべくもない状況だからこのさい却下し、別の理由を考えてみる。

 丞はテレビを見るのが好きだった。というより家では始終テレビのニュースばかりを見ている。専門学校を出て家電販売店に務めたが、仕事中でも接客をする訳での無く、ずらりと並んだ店頭のテレビに視線を座れ、しじゅうボッとしている事が多い。そんな彼とは対照的に、彼の弟という稔は小学生ながら外向的で、兄の行動を頼りなく重い叱咤して激励していた。

 丞には赤ん坊として母親の胎内にいた時からの記憶があった。そこで彼は別の<彼>と名付けた存在と一緒に過ごし、言葉をもらっていた。だが生まれからか、それとも胎内にいた時かは明示されないものの、長じて気づいた時に丞はは1人だった。何年か後に一緒に暮らしている母親という人から弟が生まれ、彼はいたはずのかたわれがいない家で、父親と、母親と弟らしい人たちとの暮らしを営んでいた。

 相変わらずの世間への無関心振りから仕事を首になった主人公は、どこか欠けてしまっている自分の心を満たすためなのか、いなくなったはずのかたわれを探そうと決意する。父親と、母親らしい人と自分との関係を赤ん坊の頃から続いているという記憶から看破し、また自分が赤ん坊の目で見た風景の記憶を頼りに神奈川へ、そして秋田へと旅立つ。

 探し当てたかたわれの消息、そしてかつての<彼>がテレビを見るのが好きだったことを丞は聞き出す。テレビという世間へと開いた窓を介してつながっていた彼と<彼>の姿を、一卵性双生児の神秘だと言って納得すれば話は綺麗な物語におさまる。けれども神秘などないかもしれないのだという事を、たとえ一卵性と二卵性の違いはあっても双子として過ごした経験を持つ身としては、ましてや双子とはいっても離ればなれに過ごした彼と<彼>の関係を知る者としては、事実としては「偶然」だったと見るのが正しいように思う。

 事実としては、と書いたのはつまり「生誕」は小説であり事実の記述ではないからだ。離ればなれになって閉塞した家庭で家族はいながらも内実は孤独だった双子の2人が、拠り所としたものが同じ世界へと繋がる、ように見える窓としてのテレビだったと指摘する、その道具立てとして双子の神秘が持ち出されているのだとは考えだたどうだろう。共に同じ胎内での記憶を持っているなら、決して離ればなれに暮らしたとも言えず、従って同じ感性を持って生まれたが故の共通行動だったと類推したって良い。

 いずれにしても双子の二人が共に見ていたというテレビが、実は虚構への逃避に過ぎなかったのだと気づかされるエンディングで、読者は双子との神秘よりもさらに大きな、現実へと回帰して泥道であれ、坂道であれ、舗装路であれ道を前に歩き出した丞の行動という出来事によって、ちょっとだけでも勇気づけられるのだ。

 双子の神秘などこの際どうでも良い。胎内を出てもつながっていた双子の、胎盤を挟まない互いのへその緒がここでようやく断じられ、個としての自分を取り戻す物語。安寧の中に止まり続けて進でもなく、退くでもなく惰眠を貪っていた人間が、神秘から現実へと回帰して1人よって立つ場所を見つける物語。そう読み、いささか奇妙な双子にまつわる設定も含んだ、双子の神秘が物語に折り込まれていても、納得し説得されて僕は「生誕」に称賛を贈る。


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