聖母少女



 恋する女は素敵だけど、闘う女はもっと素敵だ。

 例えば女子プロレス。中国出身の女性作家・葉青が書いた「慟哭のリング」という女子プロレスの世界を舞台にした小説では、いろいろな苦労いろいろな過去を背負った少女たちが1つリングに集まり、競い高めあって挙げ句に四散し、やがて再び同じリングで見えるといった物語が展開される。

 隻腕のボート難民レスラーや、中国からの帰国子女レスラーといった「泣かせ」の要素をこれでもかってくらいに放り込み、ややもすれば辟易させられる設定、にも関わらず闘いこそすべて、リングこそ己が自己表現のフィールドと、わき目もふらず真っ直ぐに取り組む少女たちの熱に打たれて、ずるずると物語の世界へと引きずり込まれ、感動のクライマックスまで連れていかれる。

 アマレスでもあった。池田美優、かつての世界選手権者の山本美優は、結婚と出産を経て復帰し挑んだ再起戦で、ものの見事に1回戦で破れ去った。いくら才能があるとはいえ、何年ものブランクのある体、負けて当然と気軽に挑んだかと思いきや、本人は心底から勝つ気で挑み結果破れ、負けた悔しさからなのか、それとも全盛にとうて及ばない己の体の不甲斐なさを恥じたのか、試合後に泣きじゃくっている姿がテレビに映し出されて、その闘う姿勢の真剣さにちょっとだけジンと来た。聞くと後日の復活戦で見事に勝ち抜き、世界大会への出場をもぎ取ったとか。これもまた泣かせる話ではある。

 「YAWARA」ちゃんなどともてはやされて、勝つことが当然と思われていた柔道の田村亮子が、アトランタ五輪で北朝鮮の選手に破れて呆然としていた表情には、あの体躯あの造作にしてなお惹かれるところがあったし、テニスの伊達公子にしてもゴルフの朴セリにしても、決して美人とはいえない顔立ちながら、闘っている場での真剣な表情には共通してグッと来るものがある。マルチナ・ヒンギスは土台が良いから闘っていようと体重計に乗っていようと、始終ピクッと来るのだが。

 まきの・えりが6年の歳月をかけてようやくにして上梓した、「聖母少女」(ケイエスエス出版、上下各1300円)に登場する西村亜紀もまた、闘う少女の1人として強いオーラを発散しては、周囲の男も女も老いも若きも惹きつけて止まない。もとよりこの西村亜紀、T大現役合格も夢ではないほどの秀才にしておまけに校内でも1位を他に荒そう者がいないくらいの超越的美少女。放っておいても美しさは他を圧して余りあるものがあったのだけど、あるきっかけからボクシングへとのめり込み、プロとしてデビューし並みいる強豪のそれも男のボクサーを、次々と倒していくって言うからたまらない。美しさは3倍どころか3乗となって、行間からページの隙間から溢れ出しては読む者を包み込む。

 学校では猫を被ってお淑(しと)やかなお嬢様で通していても、実は亜紀は子供の頃から手の付けられない乱暴者で、いじめっ子を泣かしからかかう男に蹴りを入れては骨の1、2本もへし折って来たという猛者だった。対して亜紀の幼なじみの立花稔は喧嘩暴力の類は一切が苦手で、顔に似合わず「カカカ」と大笑する亜紀に、子供の頃から助けられることが多く、いつしか頭が上がらなくなっていた。そんな2人を恋人どうしと勘違いする男共は、当然のことながら凶暴な亜紀の本性は知らず、稔につっかかっては弱い彼を脅かす。これはたまらんと思い始めた稔が、亜紀への劣等感の克服もかねて始めたスポーツがボクシングだった。

 幼なじみ故に今さら好きとか嫌いとかいった感情を面と向かってぶつけあうのは照れくさい。かといって亜紀は稔が気になるからこそ、稔と同じジムに入門しては練習に精を出し、いつしか稔も追い抜いてジムのホープとして男たちとの試合に勝ち抜いていってしまう。稔はと言えば何かとまとわりつく亜紀の気持ちを知っていても知らぬふりして練習に励み、実力だけはつけるものの生来の優しさ故に格下と解ってしまった相手を打ちのめすことができず、連敗街道を走っていた。

 不器用な2人にも増して極め付けの不器用な恋の物語を演じるのが、2人が通うジムの会長で世界を前に引退を余儀なくされた「ジョー・大木」と、彼を慕って夫も捨てて、にも関わらずボクシングしか見ようとしなかったジョーに絶望して逐電し、今は流行作家の秘書めいた仕事をしている順子、そして氷のようだと思っていた順子が突如生き生きとし始めたのが気になって仕方がない、順子の雇い主でもある作家の瀬戸純一。若い稔が亜紀とは違った女の子とつきあい、けれどもボクシングが気になって仕方がないシチュエーションもそのままに、苦い別離を過去に演じて10数年の後に再会した順子と大木の張りつめたような関係をもう1方の軸にして、世代の違う男たち女たちがボクシングを通してお互いの心をさぐり合う。

 ボクシングを通して自信をつけ自身を見つめ直そうとする稔に比べると、亜紀がボクシングに挑む姿勢に自身の欲望をなかなか映そうとしない部分が読んでいてなんだかもどかしい。かつて世界チャンピオンを目指して果たせなかった会長も、最後に世界チャンピオンの座を掴むジムの先輩も稔のプロテスト以来のライバルも、皆なんらかの目的を持ってボクシングというスポーツに取り組み、リングの上で相手と向き合い、自分と向き合い、恐怖と向かい合って真剣に闘っている。

 ならば亜紀はいったい何のために闘っているのか。そこがなかなか見えてこないからこそ、美少女ボクサーが世界チャンピオンを目指して闘うという、甚だキャッチーなシチュエーションを持った小説であるにも関わらず、稔が恋と闘いを経て次第に強く成長していく物語と、因縁と怨念が渦巻く大木と順子の純一の複雑怪奇な恋の大バトルに目が向いてしまう。「聖母少女」というタイトルに、いささかの懐疑も抱きたくなる。

 けれども、己が感情をあからさまにしない亜紀が、ボクシングを通して精いっぱいの自己表現をしているのだという考えに及ぶことで、素直になれない亜紀の切ない気持ちがかえってじんわりと浮かび上がって来る。ここに来てようやく気付く。闘う女がすべて素敵な訳じゃない。自分でも他人でも、何かのために闘う女のその心根が素敵なのだ。美少女のボクサーがバッタバッタと男共をなぎ倒していく物語は痛快ではあっても素敵じゃない。機械のように相手を倒すだけならなおさら不気味だ。けれども亜紀は拳にこめる思いをちゃんと持っていた。それが見えて来た時に、タイトルが醸し出すイメージが本作の内容ともピタリ一致する。

 恋する女が闘う物語。これほど素敵でかつ無敵なものはない。


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