さよなら

 絶対的で不可逆的。だからこそ「死」は、後に残された人に悲しみとか、戸惑いとか、怒りとか、苦しみといったさまざまな感情を抱かせ、心のなかにとどまって気持ちを揺さぶり続ける。

 もう会って声を聞くことができないのね。僕はこれからどうしたらいいんだろう。この怨みをだれにぶつければいんだ? あなたの事故死の責任はわたしにあるの? 死んでしまった人に決して聞くことができない問いへの答えを、残された人たちは自分のなかだけで想像し、ふくらまし、さまざまな感情を揺らめかせ続ける。

 もしも「死」が絶対的なものではなかったら。さかのぼれるものだとしたら「死」は、生きている人たちの心にどんな感情をもたらすのだろう。より深い悲しみなのか? それとも悔いを振り払っての穏やかな境地か?

 森青花の「さよなら」(角川書店、1500円)には、絶対的でも不可逆的でもなくなった「死」が、残された人たち、生きている人たちの心へと及ぼす、さまざまな波紋が描かれる。そして、「死」とはいったいどういうことなんだろうと、読む人たちにあらためて考えさせる。

 主人公は一人暮らしをしていた95歳の老人。息子と折り合いが悪く、孫とも没交渉だった老人に、孫の娘、つまりは曾孫が小学校に上がるから、会いに来てくれと孫から連絡が来る。喜んででかけ、曾孫との楽しい時を過ごしたのもつかの間、自宅へと帰った老人を交通事故が襲い、歩けなくなった老人は、誰にも助けを求められないまま、布団の中で飢え死にする。

 ところが不思議なことに、老人の「こころ」は天へものぼらず地にも沈まず、現世にとどまり続けた。理屈は不明だが、どうやら乾燥した死体に理由があったようで、老人は布団のなかで乾いていく体を置いて、自由になった「こころ」を飛ばし、曾孫のところや碁会所の仲間のところをのぞいてまわる。

 そうなってしばらく経ったある日、「こころ」だけになった老人は、眼前で悲しい事故が起こって親しい人が死ぬ姿を目撃する。手も足もでない老人には事故を止めることができなかった。けれども事故死によって残された家族に、「こころ」を現世へととどめる言葉だけは伝えられたようで、家族は突然の断絶によって抱かされた自責と哀惜の感情を、蘇った「こころ」からの言葉で、少しだけ払うことができた。

 老人はその後も、夫婦げんかのアクシデントで死んでしまった妻の「こころ」を蘇らせ狼狽する夫を落ち着かせた。心筋梗塞で死んでしまった夫の「こころ」を現世にもどして、身重の妻が抱いていた自責を気持ちを和らげさせ、新しい命の誕生へとつなげた。絶対性、不可逆性からちょっとだけ逃れた「死」は、残された人に幸せをもたらした。

 もちろんもたらされたのが幸せばかりだっとは限らない。死んでしまった人の「こころ」に触れて、忘れようとしていた後悔や自責を蘇らせて、より深く苦しんだ人もいただろう。「こころ」に触れて喜びを得た人たちのエピソードから受ける、爽やかな感じにいささかの苦みが読後に混じるのも、そんな可能性が想像できるからだ。

 やはり「死」は、完全に絶対的で不可逆的なままであるべきなのかもしれない。蘇った「こころ」によって和らげられても、最終的には「死」は「死」として残された人たちの前に立ちはだかり、心を揺さぶりつづける。だったら最初から、人はあまねく「死」を「死」として受け止めるべきなのかもしれない。

 それゆえにだからこそ、絶対的で不可逆的な「死」を、そうでなくしてみせた「さよなら」に描かれるエピソードは貴重だ。死んでしまった当人との対話を通して「死」を受け入れる人たちの、それでも「死」から逃れられない姿を描いた物語が、「死」への諦念を読む人の中に芽生えさせ、来るべき日を受け止める心構えをさせてくれる。

 死んでもなお現世に「こころ」をとどめておける、という設定はともすれば人に自らの「死」への恐怖を和らげ、心安らげる方向へと働く場合がある。けれどもこの「さよなら」に出てくる死者たちから、「生」への未練は聞かれない。当人にとって「死」はすべての終わりでしかない。だから恐怖など抱いても仕方がない。「死」は残された人たちにのみ、大きな意味を持つ。

 自分の「死」ではなく、他人の「死」について思いを馳せたい人にはぜひ、この「さよなら」を読んで気持ちを鍛えてもらいたい。後悔や自責や悲しみや怒りを覚えそうだと思ったら、そうならないために、もしなってもいつまでも引きずり続け沈み続けないために、「さよなら」を読んで気持ちにゆとりを持ってもらいたい。

 あなたがそう思えるようになれば、あなたをおいて「死」ぬ人は安らかに逝けるのだ。それはあなた自身の安らぎにも、世代を変えてつながるのだ。


積ん読パラダイスへ戻る