さらば雑司ヶ谷

 渋谷原宿六本木。歌舞伎町に池袋。若いやつらが遊びまくって、悪いやつらが暴れ回るキケンな街といったら浮かぶのは、そんな名前だろう。けれどもだ。実はいま、東京で一番キケンな街はこいつらではない。

 雑司ヶ谷。池袋から地図でちょっとばかり南に下がったその街こそが、東京どころか日本でいちばんキケンな街。都電荒川線がゴトゴトと走り、個人商店が建ち並び、霊験あらたかな鬼子母神があって爺さん、婆さんの参拝者が集まるのどかな風情の裏側で、ギャングが人身売買やドラッグの密売を繰り返していたりする。本当かい?

 本当だ。樋口毅宏の小説「さらば雑司ヶ谷」(新潮社、1300円)にはそう書いてある。読めばそこが野獣が闊歩する六本木よりも、チーマーが群れる渋谷よりも、カラーギャングが西口を徘徊する池袋よりも猥雑でデンジャラスな街だとわかる。

 もっともかつて雑司ヶ谷は平穏だった。100歳になんなんとする占い師のババアが、巨万の富と政治家を動かす権力で、長く女帝として君臨していた。とはいえ最近は、その威光にも衰えが出たのか、事件や事故が頻発して、雑司ヶ谷の空気がどんよりよどんで来た。

 若いながらも巨体と度胸でチンピラたちを束ねていた京介が、殺されてしまったこともあって、その配下にいた芳一という暴走族あがりの男がボスになって、悪事をばらまき暴力をはびこらせ、雑司ヶ谷を歌舞伎町にも負けない暗黒街へと突っ走らせていた。

 これはいけないとババアに呼び出されたのが、5年ぶりに日本に戻ってきたばかりの孫の大河内太郎。5年もいったいどこに行っていたのか? それには理由があって雑司ヶ谷の混乱とも絡んでくるが、そうした水面下での怨みや憎しみの感情とは別に、太郎は雑司ヶ谷の下水道で作業中だった5人が、ゲリラ豪雨で流され死亡した事故の真相を探り出せとババアから命じられ、街へと飛び出していく。

 そしてその先で、太郎は自分をつけねらう芳一を相手に拳を振るい、京介に頼まれ芳一によって売られた子供を取り戻しに渡った中国で、5年に及んだ滞在の中で刻まれた体と心の傷にケリをつけようと突っ走る。

 鬼子母神があり、個人商店が並ぶただの下町が、歌舞伎町を舞台にした馳星周の「不夜城」にも負けない暗黒小説の現場になっているというユニークさには、雑司ヶ谷をよく知る住民でなくてもニヤニヤできる。知っているならなおいっそう。あの街のあの店やあの道がそんな場所にと笑えてくるだろう。

 もっとも、これはあくまでフィクションで、雑司ヶ谷にはまだ暗雲はたなびっていないとして、池袋や六本木でもない繁華街で日常的に暴力がふるわれ、ドラッグがはびこり、弱い人間が虐げられている実状を見た時に、もはや特別な暗黒街など存在しない、日本中が歌舞伎町のような暗黒街に変わろうとしているのかもしれないと気づかされる。

 いつか雑司ヶ谷もそうなるし、巣鴨も上野も田園調布もそうなっていく。すでに静かな住宅街に、疲れ膿んだご婦人方が求めるドラッグを手にした売人が、入りこんでいるともいう。閑静な場所? 平穏な場所? そんなものもはや日本には存在しないのだ。

 蹂躙され調教される太郎の姿から、暴力の快楽に染められていくおぞましさに震えられる。追いつめられた太郎が、瀬戸際から大逆転するドラマに興奮できる。動く心と弾ける肉体がぎっしりとつまった暗黒のハードボイルド。それが「さらば雑司ヶ谷」だ。

 オザケンの詞への賞賛にもうなずける。映画「E.T.」で子供が見せた行為のずるさを指摘する言葉にも大人なら納得できる。数々の映画と音楽と風俗と文化が織り交ぜられて、同時代に生きてきた者たちの共感と郷愁を誘う物語でもある。

 そして、最後に故郷を失う寂しさに泣けてくる。敏腕編集者による、これが最初の小説だとしたらいったい次に描くのははどれほどに格好良く、どれくらい深淵な物語になるのだろう。続編があるならそれでよし。新作であってもなお期待が膨らむ。

 ざっと読み終えてから訪ねてみたくなる雑司ヶ谷。その景色はきっと、渋谷よりも熱気にあふれ、歌舞伎町よりも猥雑で、池袋西口公園よりもギラギラと輝いて見えるだろう。


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