March comes in like a lion
3月のライオン

 誤解がある。将棋の強い棋士は、生き様も破天荒なら生活も破滅型。不遜な態度でお行儀の良い先輩や、圧力をかけてくる老人たちをばったばったとなぎ倒し、突き進んでいくものだという誤解が。

 古くは能條純一「月下の棋士」の氷室将介であり、最近ではかとりまさる原作で安藤慈朗絵の「しおんの王」の斉藤歩であり、柴田ヨクサル「ハチワンダイバー」の菅田健太郎。強さとともに危うさを持ち合わせたその生き様は、けれども多くのファンを引きつける。

 現実は違う。最強の棋士は私生活も真面目なら性格も真っ直ぐ。現役最強と言われる羽生善治二冠も、若くして棋界最高位の竜王位に就いた渡辺明竜王も、ともに真面目で真っ直ぐに将棋に取り組み、今の地位を成した。この2人とともに中学生でプロ棋士となった谷川浩司も同様。天才の証とも言える中学生棋士となった4人のうちで、破天荒なのは“神武以来の天才”こと加藤一二三九段しかいない。

 持てる才能で相手をねじふせられた加藤九段の時代ならともかく、コンピュータが発達して自在にデータを、それも最新の棋譜まで含めて研究できるようになった昨今、勝ち抜くには耐えざる研鑽を積み上げ、知力を高めつつ、体力勝負なる対局に向けて体を健康に保つことが何より大切。その点で言うなら、羽海野チカの「3月のライオン」(白泉社、467円)に登場する棋士で、羽生や渡辺のように中学生でプロになった桐山零の描写は、羽生や渡辺に並ぶ天才棋士に相応しい。

 東京の、月島に似た三月町から少し離れた六月町に建つ、小ぎれいなマンションでひとり暮らしをしながら、千駄ヶ谷にある将棋会館に行って将棋を指している桐山零五段。中学生でプロになっただけでなく、50人からがひしめくC級2組で数年のうちに上位3人に入り、C級1組へと上がった天才の彼が、まだ17歳にも関わらずひとりで生きているのには訳があった。

 両親を早くに亡くしたこともあるけれど、それとは別に恩人への罪の意識が募って、孤独になるのを承知で家を出た。家というのは、母や妹とともに事故死した父親の知人だったプロ棋士の家で、ひとりだけ生き残った子供の零は、その家に引き取られ、棋士を目指すことになった。

 実の娘の香子も息子の歩もやっぱり棋士を目指していたけれど、ぐんぐんと伸びる零の実力に触れて歩は早々にプロ棋士を諦め、家に籠もってゲームに明け暮れるようになった。そして香子も、女性ながら奨励会に入る実力を持ちながらも、零に勝てない力ではプロにはなれないと、父親に退会を強制される。意地っぱりで激しい気性の持ち主だったけど、将棋にかけてはなかなかの熱情を持っていただけに、道を閉ざされ今は放蕩の日々を送っている。

 恩人である棋士の家庭を、崩壊に至らせてしまった贖罪の意識。いたたまれなさから師匠の家を飛び出して、ひとり暮らしを始めた零に待っているのは、孤独に震えながら将棋に向かう日々のはずだった。

 そんな零を救ったのが、三月町に暮らすあかり、ひなた、モモという3人の姉妹。やはり両親はおらず、和菓子職人をしている祖父と暮らす3姉妹の、悲しみをこらえ、苦労をしながあも頑張って生きている姿に零は、凍てつきかけた心を融かして、現実の世界に踏みとどまっている。

 生真面目で、真っ直ぐな天才棋士ゆえに追い込まれざるを得なかった孤独。そこからの回復を、羽海野チカならではの可愛らしさ、賑やかさが出た絵やエピソードによって描かれた漫画からは、家族でも友人でも、誰かと生きる素晴らしさがにじみ出る。羽生善治に匹敵する力の持ち主と期待されながら、若くして病没した村山聖九段をモデルにした二海堂晴信四段という零のライバルの存在も、仲間のいる楽しさを感じさせる。

 温かくて前向きな、そんな物語がけれどもこれからも続くとは限らない。挿入される香子とのエピソード。実力がなかったとは言え、零のせいで道を断念させられた香子によってもたらされるかもしれない波乱を感じさせる。引きこもってしまった歩の動静も気になるところ。すべてが実力の世界と割り切る父親の棋士ともすれ違う、2人の実子と父親と、零との関係にどんな行く末が待っているのか。想像すると恐ろしい。そうはならないことを願いたいが、しかし……。

 苦労をしながらも幸福に生きているように見える3姉妹にも、波乱が起こらないとは限らない。病を押して将棋にかける二海堂の行く末も気にかかる。もっとも、だからこそこれらの困難を乗り越えて得られる幸福もあるというもの。哮り狂うライオンのような激しさで紡がれたドラマの後に訪れる、羊のように穏やかな陽の光に照らされて輝く大川端に照らされて微笑む、零や三姉妹たちの姿を期待して続きを待とう。


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