サージャント・グリズリー

 そう見えているのが自分だけということは、はおかしいのは自分の目なのかそれとも他の皆が騙されているのか。その部分をどう捉えるかによって、作品から受ける印象も少し変わって来るかもしれないけれど、とりあえずは周囲だけが騙されていると見るのが正しいのか、それともやっぱり自分だけが騙されてしまっているのか。考えてもやっぱり分からない。

 そんな悩ましさに読み始めてとらわれ、読み終えてもやっぱりとらわれ続けてしまうのが「第9回ファミ通えんため大賞」で特別賞を受賞した彩峰優の「サージャント・グリズリー」(エンターブレイン、580円)。いじめられっ子の玖流玖準が通う学校に、なぜか顔に熊のぬいぐるみを被って迷彩服を着た「グリズリー軍曹」と名乗った人物が転校して来たところから幕を開ける。

 というか本当に人物なのかも判然としないその「グリズリー軍曹」を、他のクラスメートも先生も、誰もがブロンドの髪をしてナイスバディの美少女だと認識しているから準は驚いた。グリズリー軍曹が一般的な生活にあまり慣れていないのか、それとも気にするだけの神経を持っていないのか、いきなり男子更衣室で着替えを始めた様にクラスメートたちは鼻血を吹き出し悶絶する。それくらいに美少女に見えている。

 けれどもやっぱり準にだけはやっぱり熊のぬいぐるみに見えてしまう。あまつさえボディも女性らしさとは正反対のマッチョなボディに見えてしまうから、準のアパートにグリズリー軍曹が泊まり込み、朝になって女性用の下着姿になっていてもそれは男の体に女性の下着を着けただけの妙な恰好だと見て呆れ、周囲にはどうして軍曹が軍曹に見えないのかを不思議に思う。

 軍曹を狙う頭がサーモンのサーモン閣下や、サーモン閣下が使い走りにしているブルドッグ警部も当然のようにサーモンだったり、ブルドッグの頭を被った奴らに見える。商店街で出会ったグリズリー軍曹の妹で、年下なのに階級は上のグリズリー少佐もグリズリー軍曹の母親でこちらはグリズリー大佐もやっぱり熊のぬいぐるみ。そんな熊たちが準の周囲に現れたのには訳があって、どうやら準を狙う存在から彼を守ろうとしていたらしい。

 そして始まる戦いは、親元を飛び出した少年が苦手にしていた父親たちを乗り越えようとするストーリーを芯に持ちながら進んでいくけれども、結局のとこころだからどうして、準には軍曹や少佐や大佐が熊に見えるのかという説明は成されない。だから想像をかき立てられる。

 もしも熊に見えているのが準だけだとしたら、それは準の心に何かの操作がなされているか、精神に傷を負っていて自分に優しくてくれたり、自分のことを考えてくれる存在をなかなか認められず、熊のぬいぐるみかなにかに変換しているのかもしれない。逆に準だけが正解を見ているのだとしたら、世界には熊やサーモンやブルドッグやアビシニアンが人間の恰好で暮らす世界があって、そこから人類になにがしかの挑戦がなされているのだとも見て取れる。

 どちらなのか、と考えて前者を選びたくなるのが論理的に考えればより妥当。それが証拠にクライマックスに準は、グリズリー軍曹のもしかしたら“真実”かもしれない姿を見ることに成功する。そうだとしたらこの物語はこれでなかなか思春期の人間に降りかかりがちな悩みや苦しみを、ファンタジックな体裁を借りて描き出した青春ストーリーだと見てとれる。とれるけれどもそれにしては示唆も説明もないところを見ると、単純に準には熊で生徒には少女、両方の姿で見える不思議な存在がいたというだけなのかもしれない。

 もっとも、これが歴戦の強者で軍事には強いけれども他の諸事にはからっきしという美少女が、いきなり転校して来ては妙な言動を振りまきつつ、主人公の少年の護衛任務にひたむきに取り組む話だったら、過去にいくらかもある類例に紛れて目立てなかったかもしれない。敢えてグリズリーという愛嬌はあっても現実味に乏しい設定にすることで、おかしな美少女キャラクターだったり異色のラブコメディといったパターンに導かれるある種のノイズを廃したかったのかもしれない。

 結果、周囲の喧噪と主人公の心の醒め具合とを対比させることで、ひとつには意外性のおかしさと、もうひとつにはダイレクトな心の交歓を描くことに成功している、と言って言えないこともない。真偽は不明。単純に見た目や読み具合の面白さだけを優先したかもしれないけれども、それには十分成功している「サージャント・グリズリー」。何も気にせず浮かび上がってくるメッセージらしきものを、感じ取って読み流すのが適切なのかも知れない。でもどちらかといえば美少女に見えていた方が嬉しいのだが、イラストを愛でる上でも、熊では、ちょっと、なあ。


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