サイラス・サイラス

 次から次へと繰り出される悪夢的なイメージの洪水が、ラシュディの「悪魔の詩」を上巻半ばで投げ出してしまった怠惰な人間をして、一気にラストまで連れ去ってしまう。

 虐げられた環境に育ち、遍歴の果てに心理を究め、創造主に向かって世の不条理を糾弾するも、獄中にとらわれの身となり、不思議な最後を遂げる。ストーリーだけを抽出すれば、ともすれば最近話題のあの事件、最近一番有名なあの男との関連性を取り上げて、時宜を得た本として紹介されかねない。

 しかし一読あれ。主人公サイラスが、ストーンヘンジで見た悪夢、あるいは神秘体験のイメージは、あの教団が繰り返し訴えてきたハルマゲドンのイメージなど、陳腐なものに思えてくるほどすさまじい。今の社会が抱える様々な問題の暗喩、世の不条理と悪の存在を描き出した寓話、そんな解説も、作者の圧倒的な想像力に飲み込まれ、流されて行く間に、どうでもいいことに思えてくる。心地よい悪夢という矛盾する言葉が、なぜかピッタリはまってしまう。

 訳文も素晴らしい。散文詩のようにテンポのある文体が、作者の文体を写したものなのかは確かめようもないが、猥雑な言葉が頻出するのに、なぜかクールで乾いた印象を受ける。

 「サイラス・サイラス」は帯の惹句そのままに、世界文学(ワールドフィクション)の金字塔である、と思う。

 ミルキィ・イソベの装丁にしては、雷電本紀や親指Pのような派手派手しさがないなあ、と思ってカバーを剥いだらびっくり。金ピカだあ。


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