恋のサイケデリック!
鈴木いづみコレクション3

 1981年当時、「SF」というジャンルがどれだけの商業的な価値を持っていたのかは解らない。雑誌では「SFマガジン」以外に「SFアドベンチャー」や「奇想天外」が刊行され、「SF宝石」も刊行されていたかもしれないから、「SF出版」という意味ではなかなかに賑わっていた時代だったのだろう。

 私事でいえばこの1981年は、「SFマガジン」の定期購読を始めた年に当たっていて、前後してデビューした神林長平、大原まり子、岬兄悟、火浦功、草上仁といった新人の作品を、毎号楽しみに読んでいた。「グインサーガ」の刊行を始めていた栗本薫が、未来社会をテーマにしたSF「レダ」の連載を「SFマガジン」誌上で始めたのも、たしか1981年だった。

 「SF」というレッテルを貼ると本が売れなくなるなどといった、元々社や室町書房がシリーズを刊行して挫折した「SF草創期」にも似た風説がささやかれている、「SF」に厳しい昨今の出版状況からすれば、はるかに穏やかな状況だったのだろうと思う。そんな状況は少なくとも80年代後半まで続いていたから、SFを書いている作家にとって、決して悪い時代ではなかったはずだ。

 けれどもそんな1981年に、「ペパーミント・ラブ・ストーリー」と「カラッポがいっぱいの世界」を「SFマガジン」に発表し、書き下ろし作品を含んだ短編集「恋のサイケデリック!」を刊行して以降、鈴木いづみはパッタリとSFを書かなくなってしまった。同じ年、「奇想天外」には「夜のピクニック」を発表しており、前年の「なぜかアップ・サイド・ダウン」(「SFマガジン」)を合わせると、文遊社から今回刊行された「鈴木いづみコレクション3 SF集1 恋のサイケデリック!」に収められた6編のうち、実に4編がこの1981年前後に集中していたことになる。

 数だけ見れば6編は決して多いとはいえないが、生涯に残した作品数から見れば6編はかなりの割合だと思う。「SF作家」としていちばん油の乗り切っていた時期、端から見るとそうとしか思えないにもかかわらず、鈴木いづみが翌年から筆を置いてしまった理由を、「SF集1 恋のサイケデリック!」に収められた短編を読みながら考えていると、そこに鈴木いづみと他のSF作家との間に横たわる、「SF」を書くことの意味あいの違いがあるような気がして来た。

 想像力を駆使して現実にはありえない非現実の世界、日常には起こり得ない非日常な出来事を描くという点で、鈴木いづみの「SF」と御三家ほかのSF作家たちの「SF」は共通している。しかし一般的な「SF」が、現実や日常を客観的に観察した上で「イフ」としての非日常や非現実を描こうとしたのに対して、鈴木いづみの「SF」は、主観的な日常や現実を、非日常や非現実へと置き換えようと試みたものであるような、そんな気がしてならない。

 自分が見たり聴いたり感じたりしている現実の日常。そこから逃げ出す先としての非現実の非日常。あるいは憧れる先としての非現実の非日常。鈴木いづみが主観する現実の日常が厳しければ、その分「SF作品」となる非現実の非日常への憧憬が深まって、作品が増えていってもいいという見方もあるだろう。けれども現実の日常が、作者にとってもはや憧憬を抱く余裕すら与えないほど厳しく過酷なものだったとしたら。主観によって現実を切り取り、非現実を創造(想像)するタイプの作家にとって、それは致命的な状況だ。勝手な想像だが、あるいは1981年を境にして、鈴木いづみの対峙する社会が、彼女に厳しく過酷なものとなってしまったのかもしれない。

 今ふたたび鈴木いづみが蘇って来た背景には、マス・メディアによる誘導も一部にはあるにしても、それ以上に社会に対峙する人々の態度が、きわめて主観的になって来たことがあるように思う。自分本位という言葉に置き換えてもいい。政治・経済・社会・文化といった客観的な要素をこねくり回して紡ぎ出す未来像ではなく、「あたしだったらこう思う」と力強く言い切ってしまう主観的な未来像。そして読者は、鈴木いづみの提示する未来像に共感すると同時に、鈴木いづみが未来像を提示する方法論に惹かれるのだ。

 「なぜか、アップ・サイド・ダウン」では、学生の主人公たちが、クレープ屋からもらったペンダントの力によって、クラスごと別の世界へと投げ出される。そこに移り住んでいる人たちとの邂逅や、ホラーっぽいシチュエーションを経て元の世界に戻った時に、何人かは死んでしまっていて、何人かは目覚めようとしなかった。逝ってしまった人たちを『バーカ』と嘲る一方で、連れていかれなかった自分たちを「一生、メジャーにはなれないのね」と言って主人公たちは笑いあう。

 「だってさ、ここまで感覚がゆがんでしまったら、はしゃぐしかないじゃない。ほかになにがあるっていうの? もしあったら、きかせて。おねがい」(157ページ)。鈴木いづみは、自らが抱いている社会への「あかるい絶望感」を登場人物たちに投影して、追いつめられた上での開き直りともとれる問いかけの言葉を最後に置いた。

 あるいは「ペパーミント・ラブ・ストーリー」。8歳の少年が12歳上の20歳の美しい女性に恋慕の情を抱く場面に始まるこの短編は、10年、20年、30年、40年の年月を隔てて少年が壮年に、女性が老女になった場面へと展開する。結婚して離婚して、ただ歳だけを重ねてきた少年はからっぽのまま街を出ていこうとしている。一方、男性とつき合うことを最上の喜びとして歳を重ねてきた女性は、発狂して内なる幸福の世界へと向かおうとしている。

 追いつめられた場面で提示された2つの道の、どちらがより幸せかというと、おそらくは後者の女性が選んだ道、すなわち主観の世界に永遠に閉じこもることだったのではないだろうか。それは自死という道を選んだ、鈴木いづみの生涯ともオーバーラップしてくる。

 主観したことを小説という形を借りて口にして、あるいは体現して見せる鈴木いづみの方法論に、80年代後半の虚飾の時代を経て、がこれからは本音で生きたいと思っている人たちが共感し始めている。とても素晴らしいことのように思う。ただ1点、鈴木いづみ本人が、あの虚飾の時代をくぐり抜けられなかったことだけがひどく残念でならない。うつろいやすい人の心が、再び虚飾に満ちないとは限らないが、だからといって鈴木いづみまでをも、再び眠りに着かせることのないよう、その存在を語り次ぎ、その著作を読み継いできたい。


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