裁縫師

 「女」が「おんな」になるのはどのような瞬間なのかを知りたかったら、小池昌代の短編集「裁縫師」(角川書店、1400円)を読めばいい。

 初潮すらいまだおとずれていない少女が。窓口の向こう側から手だけを見せる薬局の女薬剤師が。40歳を超えた独り身の都女性が。交通事故に遭い幻想に飲み込まれた女性が。父母にも兄にも捨てられた10歳の少女が。自立し、覚悟し、穿たれ「おんな」となる物語たちが、ここにある。

 近所にそびえる事業家の屋敷に間借りして「アトリエ」を開き、注文に応じて洋服を仕立てている裁縫師がいた。腕前が良くセンスも抜群と評判になって、近所の誰もが彼に洋服を仕立ててもらいたいと思っていた。すでに定年を迎えて保険会社を辞め、パートの清掃員をしながら暮らしている女性は、まだ9歳だった時に母に連れられ、その裁縫師のところを訪ねた。

 どんな服が欲しいかと聞かれ、少女はジャンパースカートが良いと答えた。重ねて母親がワンピースもと依頼。しばらくしてスタイル画が上がり、少女はひとりで裁縫師を訪ねる。さらに1ヶ月が経ち仮縫いの日が来て、またしてもひとりで訪ねた少女は幼い体を裁縫師の前に開く。「裁縫師」。

 40歳を過ぎても独身のまま、東京でひとり働きながら暮らす女性は、田舎の家族と折り合く、もう何年も帰郷していない。母の妹とその夫という、東京に住む唯一の親戚である叔母と叔父とはまだつきあいがあって、3年前にはなぜか叔父といっしょに動物園にも行った。

 本当は叔母も含めた3人で行くはずだったのが、用事で叔母が外れて2人だけになってしまったのが事の真相。内省的であまり喋らない叔父を連れ、動物園を歩く苦労をしたのに、外国から叔父が戻ってくるから成田に迎えに行ってくれと叔母に頼まれ、女性はいそいそと空港に向かう。

 空港での長い待機の間に様々な感情が浮かんでは消え、沸き上がっては育ちした果て。出迎えのゲートに現れた叔父に向かって、女性は走り出す。乳首をつん、ととがらせた感触を抱いて、叔父にすがろうとした瞬間、見知らぬ女性が彼女を遮り、叔父と仲むつまじそうにする姿を見て呆然とする。「空港」。

 まだ10歳の少女は、いつも家の用事をこなして仕事から帰る母を出迎える。ヴァイオリニストだった父親はどこかへと消え、快活だった兄は引きこもって部屋から出てこない。少女は事故で小指を失いピアノを早々と諦め、家事に追われて日々を送っていた。

 そんなある時。母親がいなくなってしまい、部屋に引きこもっていたはずの兄も消えて少女はひとり家に取り残される。11歳の誕生日が過ぎ、冬になっても少女は、周囲の大人たちのうわさ話を横に、ひとり家にとどまって、誰にも束縛されない自由に心を落ち着かせる。「野ばら」。

 主体として少女や女性が様々な出来事に直面し、「おんな」になる物語たち。一方で女性たちを取り巻く奇妙な環境から、「おんな」が浮かび立ち現れる物語も入っている。

 小児科に整形外科に内科に肛門科と、あらゆる科目の医者がそろった「かぜだまり」の街に暮らす青年が、診察を受けた帰りに薬をもらいに立ち寄った薬局で、鳥の巣のような暖かみを持った声を発しながらも顔は見せず、窓口から手だけのぞかせる女性薬剤師に感心を抱く。街には祭りがあると女性から教えられた青年は、祭りで出会った窓口の女性と淫靡な一夜を過ごす。「女神」。

 交通事故に遭いながらほぼ、無傷で済んだ女性が、痛みの残る肩を見てもらいに病院へと行く途中、乗っていたタクシーにぶつかって来た男性と出会い、なぜか動物病院へと連れて行かれて肩に馬の油を塗り込められる。興奮して気付くと片腕が取れてしまい、そして女性は幻想と幻影の中に一瞬の生を知り、虚無へと向かって飛翔する。「片腕」。

 現実から少しだけずれた幻想が、現実に暮らす人たちを惑わせ翻弄するファンタジックな短編たち。これらからもやはり女性が「おんな」となって、片やや青年を癒し導き、こなた置かれた苛烈な立場を知り、虚無へと向かう覚悟を抱く。

 大人に憧れた少女時代の回想があり、枯れようとしていた心にチロチロと燃える炎をつかの間に燃やす愛憎の物語があり、幻想と虚構にあふれたファンタジーがあり、といった具合に多才なジャンルを網羅した、5編の短編に作者の才がにじむ。

 と同時にどの短編からも匂い立つ女の香りに、男は煩悩を刺激されて下腹部を固くされ、女は胸を尖らせ腰を左右に揺すらされる。「女」が「おんな」になる瞬間。それは痛ましくも素晴らしく、そしてとてつもなく美しい。


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