ライトジーンの遺産
RIGHTGENE’s Heritage

 眼鏡を初めてかけたとき、世界が今までとは変わってしまったような気がして、少し寂しくなった。美術が好きでよく美術館に出かけて、絵の具の層や金属の固まりを見ながら、先達の遺志あるいは意志をくみ取ろうとしていたが、眼鏡をかけた時からあとは、それらの遺志あるいは意志をくみ取る作業が、両目の前に被さったレンズ越しのものとなってしまったからだ。

 もちろん今までだって、眼球という道具の水晶体が光を屈折させて網膜に焼き付け、それを情報として脳に上げたものを、色なり形として認識していただけに過ぎず、2枚のレンズが加わったところで大差はない。むしろ眼球の異常がレンズによって補正され、より先達の遺志あるいは意志に近づけたのだから喜べとと言われれば確かにその通り。

 だが眼球は、生まれながらにして備わっていた器官であり、いわば自分自身と言える。対して眼鏡のガラスは後から加えられた器官に過ぎず、役だっていることを理解はしても、違和感は今なお消えようとしない。膚を覆う服、脚を守る靴もまた、広義の人工臓器と言えなくもないが、しかし意志を持つ前から身につけていた服や靴と、視覚を一気に変えてしまった眼鏡とを、同列に並べることは出来ない。身勝手? 人間の感覚とは身勝手なものだ。

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 神林長平の「ライトジーンの遺産」(朝日ソノラマ、1800円)は、崩壊する臓器を人工のものと置き換えることが、ごく普通に行われるようになった時代を舞台にした連作短編集。そこでは生身の肉体と、人工の臓器とがぶつかりあって起こる様々なエピソードを通じて、人工臓器が至福と同時にもたらす違和感と恐怖感が描き出されている。

 かつて人工臓器を製造していた「ライトジーン社」という巨大企業が存在したが、人造人間を製造して世界を乗っ取ろうという陰謀があったとして解体され、今は人間に必要な臓器のそれぞれの部位を別々に製造している、幾つかの人工臓器メーカーが林立している。

 主人公の菊月虹(コウ)、通称「セプテンバー・コウ」は、「ライトジーン社」が解体前に遺した、たった2体の人造人間の1人だったが、処分を逃れて「自由人」となり、ウイスキーと読書くらいが楽しみの、静かで怠惰なな生活を送っている。しかし時折、市警の中央署第四課から呼び出さされ、持ち前の能力を活かして、課長の申大為から回される仕事を手伝うことがあった。

 人造人間に備わっていた能力。それは「サイファ」と呼ばれる一種の超能力だった。相手の心を読みとったり、その心を操作することができる。普通人にもまれに、同様の能力を持った者が存在するが、ライトジーンの遺児ともいえるコウの能力は世界最強。匹敵するのはもう1人のライトジーンの遺児、今はサイファの力で身体を女性に変え、MJことメイ・ジャスティナと名乗って、臓器メーカーの1つであるバトルウッド社の専属トラブルシューターとして生きている、五月湧(メイ)しかいない。

 最初の短編「アルカの腕」では、臓器メーカーのアルカ社が作っていた人工臓器の一つが、何故か自己に目覚め、七人を殺害して逃亡する。「生きたい」という意志がなせる技か、それともただの本能なのか、怪物はたった1つの細胞になっても、人にとりついて増殖し、ふたたび自身を取り戻す。そんな怪物の意志を、サイファの能力を使って奪い取ることで、コウは怪物を死滅へと追い込む。

 怪物によって左腕を奪われた第4課の新米刑事、タイス・ヴィーはアルカ社から新しい人工の左腕を贈られる。しかしまだ馴染んでいないのか、それとも怪物化した人工の四肢を目前にした記憶が新しいためか、その腕を人前になかなかさらそうとしない。いつか左腕が怪物へと変成し、自らを襲うかもしれないという恐怖。絶対に怪物へと変成しない完成品であったとしても、タイス・ヴィーの違和感はたぶん生涯晴れないと思う。

 「セシルの眼」に登場する人工眼球からは、眼鏡によって世界が鮮明になった時にも似た、人工臓器あるいは人工の器具への違和感を受ける。見えなかったものを見せる力が人工の臓器あるいは器具にあるのなら、逆の力もまたあるのではないか。とすれば今、人工眼球あるいは眼鏡のレンズを通して見えている風景、脳が受け取っている情報は果たして真実のものなのか。膨らんだ疑念が頭にとりついて、なかなか離れようとしない。生まれながらにして人工の臓器のみで構成されたコウたち人造人間だけが、その違和感から解放されているのだろう。

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 「アルカの腕」でも描かれた、臓器の持つ「意志」もまた、「ライトジーンの遺産」の各作品で繰り返し描き継がれている。「バトルウッドの心臓」には、鍛え上げられた肉体を持ち、ストリートファイトで稼ぎながらも、心臓に抱えた異常のために、メジャーな舞台へと飛躍できなかった男が登場する。彼は弱っていく心臓を人工のものと取り替えて、メジャーな舞台でチャンピオンとなったが、実はその人工心臓には秘密があった。

 臓器に刷り込まれた意志は新しい身体に移ってもなお生き続け、新しい身体を支配し、脳こそが意志の中枢と信じている概念を強力に揺さぶる。意志とは何に宿っているのか。このテーマは、「エグザントスの骨」にも登場する。次々と天然の臓器は朽ち果てていく病に憑かれた男が、1つ、また1つと臓器を人工のものへと置き換えた果てに、人工の臓器では天然の臓器で演じていた音楽は絶対に再現できないと信じ込み、錯乱状態に陥って殺人に及ぶ。

 与えられた刑罰は「臓器ボランティア永久刑」。人工臓器メーカーの実験体となり、開発途上の臓器を次々と与えられてはデータをとられる刑罰で、脳が朽ち果てるまでは絶対に死ぬことがない。いや、脳が朽ち果てたらその時は、人工の脳すら与えられるのかもしれないが、「ライトジーンの遺産」に収められた短編では、何故か「人工脳」だけはテーマとなっていないので解らない。

 男は「エグザントス社」が開発した人工骨を与えられていったん死ぬ。しかし生き返る。バラバラになっても、それこそ灰になっても生き返ってしまう男の「意志」は、いったいどこに宿っているのか。そのことを考える時、脳を越え、さらには臓器すらも越えた「意志の力」を感じとる。

 脳を含めた臓器が「意志」を持っているのか。それとも「意志」が臓器を、そして人間を形作っているのか。かならずいつかは崩壊するはずの人工臓器で全身を構成された人造人間が、サイファの能力によって臓器を生かし続けているのだと言われていることにも思いが及び、「ザインの卵」でサイファの能力を奪われた、コウとMJの行く末に思いを馳せる。

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 言葉でも視覚でも意識でも、人が存在する上であたりまえと感じているもに疑念をぶつけ、存在への不安を掻き立てる神林長平は、「ライトジーンの遺産」でもまた同様に、人間を構成する臓器というパーツの意味を問いかけ、人間が持っていると感じている「意志」の役割についても考えさせてくれた。怠惰な日々を送り、たぶん「意志」によって老いることを選んだコウと、生きていくことにどん欲で、「意志の力」によって肉体を変容させてしまったMJの対比からも、「意志」の力の大きさ、強さがうかがえる。

 収められている七編は、「A」からはじまり「D」までと、「X」から「Z」までのアルファベットを頭に冠した人工臓器メーカーのエピソードで、「E」から「W」までの19の臓器のエピソードがすっぽりと抜け落ちている。全身を見回し、撫で回してみて、ほかにも「足」だの「脚」だの「舌」だの「耳」だの、その他もろもろの器官が「意志」を持ち、勝手に暴れ回る光景を想像して恐怖し、あるいは「意志」によって統御され、正確に動き続けている様を理解して安心する。

 けれども願わくは、書かれなかった19の臓器のエピソードを、是非とも読んでみたい気がしてならない。MJの兄弟(姉弟?)喧嘩も見てみたいし、不敵で不気味な申大為、若くて元気で正直者のタイス・ヴィーたちがこのまま消えてしまうのは残念だ。しかしいっぽうでは、ほとんど年1作ペースとなった神林長平の想念によって生まれる、違和感に満ちた新しい世界にも接してみたい気もしており、身勝手なファンの集合心理が、「意志の力」となって神林長平に続編と新作を書かせないものかと、遠く松本に向かって念を送り続ける昨今である。


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