リウーを待ちながら

 “その後”のことを考える。

 新たな患者の発生がなくなり、命を失わずに済んだ感染者は回復して誰かに移す心配が消えて、横走市から完全にペストの痕跡が消え去って後、人は横走市で暮らし続けてくれるだろうか、あるいは人は横走市へと入ってきてくれるだろうか、と。

 有史以来、幾度もあったペストの大流行で大勢の人が死んだ都市も、今は普通に人が暮らしているし、当時だって出てもいかなければ入ることを妨げもしないで、普通に日常へと戻っていった。恐怖はあっただろうし嫌悪もあったかもしれないけれど、それを露わにするよりも大切なこと、日常を生きるという人間のとっての当然を受け入れる必要があったからだ。

 現代の日本ではどうなるだろう。富士山の麓にある横走市で自衛隊員が倒れているのが発見された。病院で血を吐き生命も危ぶまれたものの体力があったからかどうにか回復。けれども周囲では1人また1人と呼吸障害で倒れ、そのまま亡くなる人も出て、病院で働いていた看護士の女性も元気だったことが嘘のように数日後、寝たままで亡くなってしまった。

 何かが起きている。内科医の玉木涼穂の懸念はそのまま現実のものとなって、横走市で肺ペストが流行り始めていることが判明する。原因は中央アジア。そこで流行していたものを派遣されていた自衛隊員が持ち帰り、駐屯地のある横走市に広めてしまった。何という失態。けれども今は6世紀の東ローマ帝国でもなければ、2000万人から3500万人が死んだという中世ヨーロッパでもない。薬はある。医者もいる。だから大丈夫。誰もがそう思った。涼穂も。ところが……。

 朱戸アオによる漫画作品「リウーを待ちながら」(講談社、630円)に描かれるのは、現代に蘇った中世ヨーロッパにおけるペスト大流行の恐慌にも似た事態だ。最初の発生は、自衛隊が原因を隠蔽するためにペストの可能性を黙って事態を悪化させることはなく、現代だからこその物療と医療体制で押さえ込むことが出来た。看護士だった母親から感染したらしい女子高生の鵜月も生き残った。

 光明を見たその矢先に、煉獄が口を開いて横走市を飲み込んだ。「リウーを待ちながら2」(講談社、630円)で明らかにされた新たな事態が、抗生物質の大量投与によって押さえ込めたはずの肺ペストを、逆に増殖させる結果となって感染爆発の危機を呼び込んだ。横走市は閉鎖され、外部との行き来は禁じられて家族や恋人に分断されてしまう人たちも出た。

 それだけならただの悲運や悲恋で終わるものが、ペスト菌はそうした人間ドラマを容赦なく死の色で染めていく。毎日のように運び込まれる感染者に対し、決定的な治療薬もないまま、ただ延命措置だけ施して経過を見る。それで回復するはずもなく次々に死んでいく様に、涼補たち医師はどんな気持ちを抱いただろう。憤りだろうか。悔しさだろうか。無力感だろうかか。諦めの感情だろうかか。

 第2巻で病院に運び込まれた母親が、いっしょに運び込まれたはずの息子がいないことを訴えていたのを聞いて、涼穂は上司の止めるのも聞かず、別のテントに運び込まれていた息子を探し出して母親の傍らへと連れて行く。母親に会えて安らかな表情に戻った子供を愛おしく抱く母親の絵が上半分に描かれたページの下半分には、空っぽになったベッドが描かれる。その対比がとてつもなく悲しい。どうしようもなく悔しい。

 もっとも、読者として浮かべるそうした悲しみや悔しさは、物語の中の涼穂たちにとってはすでに日常と化していたものだろう。だから、涼穂は涙しながらも「いい事があったの」と、単身で乗り込んでそのまま居着いた疫研の原神の問いかけに答える。人の命を救うのが使命の医師にとって、命を失わせるのがいいことであるはずがない。それでも死を看取るしかない煉獄では、親子をいっしょに逝かせてあげられたことをいいことと思うしかない。矛盾。葛藤。懊悩。現場の医師たちに浮かぶ行き場のない感情に、なおいっそうの悲しみや悔しさ浮かぶ。

 どうしようもなかったのか。どうしたらよかったのか。もしかしたらいつか自分たちが襲われるかもしれない事態に対して、何が起こるのかというビジョンを見せ、そこで抱くだろう覚悟のようなものを与えてくれる物語。それが「リウーを待ちながら」だ。防げるのなら防ぎたいけれど、防げなかったのだとしたらどう向き合い、どう生きて、どう死ぬかを考えたいし、考え続けなくてはならない。

 前例のない現代病としての肺ペストの大流行と大勢の死が、徹底した押さえ込みによって世界的な感染爆発とはならず、やがて一段落して死んだ人と生き残った人に分かれた時、横走市がどのような姿を見せるようになるのかに興味が向かう。ここにひとつの指針がある。半ば運命として死がかたわらに横たわった横走市では、誰かを失った悲しみを受け入れずとも身には感じて、今を生きようとする人たちの連帯が生まれていく。

 タイトルの元となったアルベルト・カミュによる小説「ペスト」にも、ペストで大勢が死んだアルジェリアのある街が、大流行を抜け出て平常を取り戻していく様が描かれている。いつか今日が来るのだとしても、やがて明日が来るのならその明日に気持ちを向けて生きていこう。「リウーを待ちながら」にもそんな未来が描かれて、大団円を迎えることを期待したくなる。そしていつか現実に、同じような事態が起こっても、自棄にならず慈しみの中で終焉を迎え、再生へと向かうことを心から願う。

 もっとも、世間の横走市を見る目は厳しく、外では文字通りの“病原菌”として見做された横走市への無理解と嫌悪が広がっている様子も描かれている。それはそのまま現実のこの世界にも当てはまってくる。中世ヨーロッパよりも、そして194X年のアルジェリアよりも情報が発達し、流言が光の速さで伝わる現実の世界で人は、悪意を簡単に肥大化させて悪疫のように広めてしまえる。肺ペストよりも恐ろしい言葉の疫病に罹らないための準備をも、この作品を読むことで考えたい。

 “その後”の横走市に人が集い、往来があってそこに暮らしている人も、これから暮らす人も誰からも愛され、慈しまれることを願って。


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