世に星ほどの傑作動物漫画はあるけれど、萩尾望都が描いたもの、というと思い浮かぶのは「とってもしあわせモトちゃん」くらいか。いやいや、それは動物漫画なのか、お化けか何か得体の知れない生き物だったのかといった疑問も浮かぶけれど、何であれ人間とは違った生き物が、擬人化されて登場する漫画といったらこれくらい。だから真正面から猫を人間になぞらえるような形で登場させた「レオくん」(小学館、420円)の登場は、いささかの驚きを持って迎え入れられたのではないだろうか。

 単行本にかけられた帯には猫の写真がずらり。巻末にも猫の写真が掲載されていて、なるほどこれは飼い猫を題材に描かれた、大島弓子の「グーグーだって猫である」のようなエッセイ漫画のひとつなのかも知れないと決めて手に入れ、開いて読み始めてみてさらに驚きいた人も少なくないかもしれない。内容は、レオくんという名の猫を主人公にして、猫の側から見た人間界の不思議な日常を描いたフィクション。例えるなら夏目漱石の「我が輩は猫である」に近いタイプの漫画と言えるかもしれない。

 飼われている猫だけれど、人語が分かって喋ることもできるレオくんは、近所の男の子が学校に行っていると聞いて興味を持つ。とりわけ給食には興味津々。食べたくって食べたくって、飼い主のお母さんに頼んで学校に入れてもらう。猫が喋るだけでも妙なのに、学校へと通い始めるそのファンタジーとリアルがシームレスにつながっている不思議さがまず面白い。

 なおかつそうして通い始めた学校で、席にじっとしていられないからと怒られ、授業中にトイレにいくのはともかくとして、それを外でしてしまって怒られ、股間を舐めて掃除しようとして怒られ、尻尾を振って怒られやがて泣き出してしまうレオくんの姿に、衝動の激しい子供の姿を見ることも可能だろう。ただ一方で、人間とは当人が気づかない間に、とても不自由な環境に身を置いているんだとも気づかされる。

 それが当たり前って思ってしまっているから、授業中には私語を喋らず居眠りもせず、トイレに立つこともあまりしないで、先生の言いつけはちゃんと聞く。大勢の中で突出せずに暮らしていくための、それは知恵なのかもしれないけれども、突出してしまうからこそ世に認められる才能もある訳で、それなのに小さい頃から同調することを刷り込まれてしまった人間には、大きくなってから突き抜けるなんてことはなかなか疎ましくてできはしない。

 しばらく後の短編で、レオくんが学校に来ていた時にその姿を見て興味を持った女の子が、レオくんに会いに行って話をしたものの、学校に行かなくなった理由を説明されて、立派な人になるには学校に行かなきゃだめなんだと、多分いつも親や先生からいわれていることをレオくんに言って、でも立派になる必要なんてないんだよねって返されて、女の子が泣いてしまうシーンがある。

 当たり前だと思わされ押しつけられていることの不思議さ、窮屈さというものがくっきりと浮かび上がって泣きたくなってくる。猫になれたら良いなあと思えてくる。羽ばたく自在さ、自分のやりたいことをやってやりぬく大切さを、レオくんの奔放な振る舞いを通して教えてくれようとしている漫画、なのかもしれない。

 漫画家のアシスタントに行って、あまり役には多立たなかったものの、一所懸命にやってるレオくんに周囲も和んでしまうエピソードは、形にはまってしまうことも時には必要だけれども、奔放さというものもこれでなかなかに捨てがたいものだとうことを、改めて教えている。どこかいびつな感じもあるけど、伝わって来るメッセージは強く、そして漫画としてやっぱり面白い。大島弓子の「グーグーだって猫である」が人間と猫との関わりに、互いを埋め合い補い合う素晴らしさを描いた動物漫画のひとつの極北だとするなら、「レオくん」は人間も猫もともに生きていて、それぞれを認め合い共に生きていく楽しさを教えてとして、対極に並び立つ漫画なのではないだろうか。

 そんな「グーグーだって猫である」が映画になると聞いて、レオくんが自分も出演したいと撮影所へと出かけていくエピソード。猫に対して人間がつけているランクめいたものすら気にせず、自分の思うままに振る舞い突き抜けようとするレオくんの姿に、人間の身勝手さを見せられつつ猫の勝手さ、奔放さの快楽を教えられる。猫に身を寄せ過ぎている大島弓子への、これは同調なのかそれとも猫は猫なのだという牽制か。漫画家としても並び立つ2人の間に通う、猫の漫画を挟んでの感情をいつか聞いてみたい。


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