パワー・オフ


 生命の、とりわけ人類の進化を描いたSF作品は数多い。

 核戦争でもいい、宇宙人の侵略でもいい。環境が激変し、死滅する寸前にまで追いつめられた人類が、生き残るために己の遺伝子を組み替えて新しい種を生み出す。孤島や地底に閉じこめられたり、最果ての星に置き去りにされた人類が、環境に適応しようとして己の形態を変化させる。おそらくはそんな簡単に、体の仕組みは変えられはしないだろう。もちろん、新しい種など生み出せるはずはない。けれども人類は、自分たちのもつ可能性を信じて、あるいは過大評価して、そんな夢を思い描くのである。

 何万年、何億年という時が必要な生命の変化を描く小説はSFでしか実現しえなかった。しかし、コンピューター・テクノロジーの急激な進化は、「アーティフィシャルライフ=A−LIFE=人工生命」という新しい「生命」の概念を想定せしめ、現実をちょっと敷衍させただけのリアルな時空間の中で、生命の進化というテーマを描き出せるようにした。その結果生まれたのが、井上夢人の新刊「パワー・オフ」(集英社、1800円)だ。

 工業高校で起こった小さな事故。1人の生徒の手のひらに、突然止まってしまったドリルが再び動き出して穴をあけたこの事故は、ほんの数分間だけ、コンピューターの動作を止めるコンピューターウイルスによって起こされたものだった。ほどなくして、パソコン通信のライブラリーに集められたソフトウエアの中に、ウイルスに汚染されたものが見つかり、やがて日本中のコンピューターが、そのウイルスによって侵されていく。

 小さなソフトハウスが、ワクチンソフトを専用ボードを売るために仕組んだウイルス騒動は、ウイルスを作らされた犯人が、怖くなって自分でワクチンソフトを作り、フリーウエアでばらまくことで終結を迎える。しかし、このウイルスとワクチンソフトを、自分にまかされた仕事に取り入れてみようと考えた人物がいたことから、事態は世界中を恐怖と混乱に陥れる事件へと発展ししまう。

 生命を作った神が、ほんの気まぐれを起こした結果生まれたのが人類なのかもしれない。同じようなことを、コンピューター上のサイバースペースを見おろす神である人間が考えた時、自己増殖するウイルスが生まれた。世界中のコンピューターの中に己の住処を求め、ウイルスたちは自分で電話をかけ、通信回線を通じて相手のコンピューターへと潜りこみ、増殖する。同じことが次々と繰り返されていき、やがて世界は、この数10年間に蓄積したコンピューター資産を投げ出すか、徹底的にウイルスと闘うか、大きな選択を迫られるようになる・・・。

 「A−LIFE」−自己繁殖していくプログラムとでもいえばいいのだろうか。コンピューターのCPU(中央演算処理措置)を住処にして、己の複製を作り、あるいは己の子孫を作って進化してく「A−LIFE」がコンピューターの世界で関心を集めているのは、ソフトウエアの改造・改良を、進化という概念を導入して、ソフトウエア自身にやらせてしまうことが可能ではないのか、その結果として、人智の及ばない、及んだとしても膨大な試行錯誤が必要なソフトウエアの改良・改造を、短時間で効率よくできるのではないのか、という考えがあるからだろう。

 増殖することだけを目的とし、そのためには人類にとって悪いことも、逆にいいこともする新型のウイルスを前に、人々は地球という星の上で、ただひたすら増殖だけを続けている人類という「ウイルス」の、宿主のことを考えようとしない傲慢さに気付かされる。「A−LIFE」というテーマが大変な関心を集めているのも、人類の進化の秘密を解き明かす鍵になるのではないかと考えられているからだ。

 SFの古典「フェッセンデンの宇宙」には、神の視座に立った人類の傲慢さが描かれていた。が、井上夢人の「パワー・オフ」は、サイバースペースという「フェッセンデンの宇宙」を手に入れた人類が、生命(人工生命)の力強さに感動する物語といえなくもない。SF者ならば、懸命に増殖を続ける「A−LIFE」に、おもわず「しっかりやれ」とつぶやいてみたくなるだろう。

 「パワー・オフ」の連載が「小説すばる」誌上で始まった94年当時というと、今ほどパソコンやインターネットへの関心は高くなかったし、「A−LIFE」というのもそれほど知られていなかった。新しいものへの関心を小説という形に結実させる機動力といい、読者を引き込む文体と構成力といい、まさに井上夢人(岡嶋二人)の真骨頂ともいえる作品だ。

 以下は蛇足。おそらくプロのコンピューター・エンジニアが見れば、ネットワークにしてソフトウエアにしてもウイルスにしても、穴だらけの論理が展開されていることだろう。ウイルスがコンピューターを乗っ取って、自動的にバイナリー・メールを吐き出せるようになったとして、相手方にバイナリーデータを受け付ける仕組みがない場合、果たしてプログラムであるウイルスは感染できるのだろうか。複雑なプログラムでワクチンの開発に手間がかかるといわれていた最初のウイルスが、より強力で複雑な第2世代、第2世代のウイルスが発生して悪さを繰り返していくうちに、それほどたいしたことのないウイルスとして描かれるようになるのも妙といえば妙。アラを探すほどソフトウエア工学に通じていない癖に、気にはなる程度の半可通は、少しばかり居心地の良くない思いをするかもしれない。


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