フィリップ・K・ディックのすべて

 日ごろから「SF、SF」と口にしている割には、あらたまって「SFの定義を述べよ」と問われると、たちまちうろたえて黙り込んでしまう。サークルなどで同好の仲間たちと議論していれば、競争心が働いて、それなりの理論武装が出来てくるのだろうが、そうした機会を一切持たずに来てしまうと、かろうじて「面白くなければSFじゃない」という、どこかのテレビ局のキャッチフレーズに似た言葉ぐらいしか思い浮かばない。

 近いとすれば「僕にとってのSFとは一言でいえば”何でもあり”の魅力であった。面白いものはみなSFに引き込みたいとおもっていたSF読者であった」(酒見賢一「聖母の部隊」あとがき)という言葉だろう。もっとも「ドストエフスキーだろうが『青春の門』であろうが、面白ければSFだった」(同)とまで言われてしまうと、ちょっと違うなあという気になってくる。

 「三島由紀夫だって安倍公房だって大江健三郎だってSFだ」などとほざいていた時代があったから、こういう気持ちはよく解る。しかし今になって振り返ると、これは権威ある人たちをSFの陣営に引きずり込むことで、SFを権威あるものにしたいという「下心」が働いていたんだということが解って来る。三島や安倍や大江にとって迷惑だっただけでなく、SFの側にとっても、「SFの定義」を真剣に考えていない、はた迷惑な応援だったに違いない。

 フィリップ・K・ディックといえば、「面白くなければSFじゃない」を体現して見せてくれた作家で、とにかく「面白いSF」を、長編・短編含めて何100も読ませてくれた、真に偉大なSF作家の1人だ。作品や風貌やプロフィールからうかがえるのは、とにかく「面白いSF」を読ませることだけを目標に、理論なんか糞っくらえとばかりに、情念で作品を書き継いでいったのではないか、ということだった。

 けれども、ジャストシステムの「フィリップ・K・ディックのすべて」(ローレンス・スーチン編、飯田隆昭訳、2500円)に収められたエッセイ「サイエンス・フィクションについての私の定義(1981)」には、ディックが明確にSFを定義し、その定義にのっとって作品を書いていたことがディック自身の言葉で語られていて、情念よりも理論でSFを書いていたのだということを知らされた。

 例えば「面白さ」が絶対条件となる「スペース・オペラ」について、ディックは「高度に発達した科学技術を巻き込んだ、未来宇宙における冒険や闘争、戦争に過ぎない」と断ずる。「一見SFのようには見えはする。しかしながらスペースオペラは、本質的な構成要素である独自な新しいアイディアを欠いている」(ともに161ページ)

 ディックにとってSFとは「アイディア」こそが真っ先に必要な条件なのだ。「SFの真の主人公はアイディアであって、人物ではないと述べたが、これはSFの本質をうがっている。(中略)何よりも重要なことは、次々と連鎖反応的に様々なアイディアを、読者の頭に派生させることである」(162ー163ページ)

 ディックは幻想小説もSFとは区別して考えている。「世間一般の人々が不可能だと思っていることを含」んでいるからだという。だったら「ユービック」や「逆回りの世界」など、アイディアはともかく実現の可能性という点では、世間一般どころかあまり一般的でないSFファンだって、やっぱり不可能だと思っている作品はどうなんだと言い返してみたくもなる。

 あるいは現実的には不可能な設定でも、それを可能にするための理論なり技術なりを「アイディア」して、周囲を「そうかそういう手があるか」と思わせれば、立派に「SF」として成立するということのなのかもしれない。いずれにしても「アイディア」重視の姿勢は、タイムスリップやワープや人造人間や超能力やパラレルワールドといった過去の発明を流用し、その上に「ドラマ」だけを築き上げる安易な創作姿勢に、一石を投じる役割は果たしている。

 そうはいっても、個人的にはスペースオペラも幻想小説もホラー小説も大好きだから、大好きなディックに「SFじゃない」と言われてしまうと、なんだか悲しくなってくる。例え過去の「アイディア」を流用していても、そこの上に気づかれる様々な「ドラマ」のバリエーションを楽しみたいと思っているSFファンにとっては、限りなく嬉しいことなのだ。これだから弱腰で尻軽で優柔不断で安易な理論非武装人間と言われてしまうのだが・・・・。

 森雅裕が「推理小説常習犯」で、パンのミミがどうこうと、デビュー後も厳しい生活を強いられている状態を書いていたが、ディックの暮らしも滑稽さが漂うばかりに悲惨で、電気を止められ配電盤に掛けられた鍵を工具で破壊して通電させて、翌日電気屋の人に驚かれたという。

 また「原子爆弾は完成するのか、もしそうなら、ロバート・ハインラインはどうなるのか?(1966)でさんざんこき下ろしたハインラインを、「『ゴールデンマン』の序文(1980)」では「何年か前に私が病気になったとき、ハインラインが電話してきて、自分にできることがあったら言ってくれと元気づけてくれた。そして私に電動タイプを買ってあげるよと言った。神よ、彼に祝福を。この世で数少ない真の紳士だった」(146ページ)と賞賛してる。

 もっとも、金を貸してくれたハインラインの人間性に感謝しているとはいっても、作品についてはやっぱり「政治的イデオロギーがまったく異なっている」と認めていないところなど、頑固なディックの本領発揮という気がしないでもない。

 1980年といえば死の2年前で、「ブレードランナー」の映画化の話が見えはじめ、評価も次第に高まって来た(SF界以外での、という意味で)時期だったろう。その時期にしてこの暮らしぶり。アイディアに呻吟し、金の工面に苦労しながら「SF作家」という称号にこだわり続けた信念だけには、個人的な好みや定義こそ違え、素直に脱帽する。

 文章は項目ごと、制作年ごとに並べられ、それぞれに簡単な解説が付いているので、書かれた背景を理解しやすい。値段が2500円と高いのは仕方がないとして、こういう本が今なおちゃんと出版されるということに、日本のSF出版もまだまだ捨てたものじゃないと喜びを覚える。専門出版社ではなくコンピューターソフト会社の出版部門から発売されたということに、日本のSF出版はこのままでいいのだろうかと不安を感じないわけでもないが、とりあえずは喜びの方を優先させておこう。

 やっぱり優柔不断で弱腰で安易で尻軽だね。


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