ピピネラ

 結婚はおろか、恋愛さえも満足にこなしたことのない自分が、こうしたことを言うのは、不遜なことなのかもしれないけれど、結婚って本当に、楽しいものなのだろうか。

 何10年かは確実に、別々の生活を過ごして来た他人が、ある日を境に、いっしょの生活へと移り変わって、それからの何10年かを過ごしていく。想像を絶する、ものすごいまでの相手への理解が必要となりそうで、考えるととたんに億劫になる。理解なんてしていなくても、ただ思いやってさえいれば、いいのかもしれないが、それだとどこかで、糸が切れてしまいそうな気がする。

 SF作品「バルーン・タウンの殺人」でデビューした、松尾由美さんの3作目に当たる「ピピネラ」(講談社、1600円)はそんな、糸がふっつりと切れてしまった夫婦を描いた、現代のファンタジー小説だ。先に書いたのと同じ理由で、この物語を自分が、本当に親身になって読んだとは言い難いのだけれど、少なくとも人間は、自分の欲望を押さえつけたままでは、暮らしてはいけないのだということを、教えられた気がした。

 結婚して4年とちょっとになる夫婦がいた。夫は出版社勤務、妻は勤めをやめて専業主婦になった。ある日妻は、自分の体が小さくなることに気がついた。主に家の中でだけで、その現象が発生するのだが、時には外出先で、体が小さくなってしまう事もある。主人はそんな妻に理解を示す。いや、示したふりをしていただけなのかもしれない。夫は夫で、ある日突然、失踪してしまうのである。

 妻は最初、夫探しに積極的に動こうとはしない。しかし古くからの友人が現れて、背中を押すように夫探しの段取りを付けていく。小さくなってしまうという不安を抱えながら、妻とその友人は、夫を捜して東北の小さな街へとたどり着く。そこで妻は、夫が家庭では決して見せようとしなかった欲望と、そして自分自身の欲望の在処を発見する。お互いの心の奥底にある欲望を見せあった夫婦は、再び元の生活を取り戻せるのだろうか・・・。

 「ピピネラ」は、ドリトル先生のシリーズに登場する雌カナリアの名前。綺麗な声で鳴く必要のない雌カナリアが、努力して美しい声で鳴けるようになり、その美しさ故に様々な苦労を経て、幸せを掴むストーリーは、フェミニズムを象徴しているかのように映る。しかし作中の人物は、ピピネラのストーリーを革命の物語と読み、虐げられた者たちが、ピピネラの歌声に励まされ、欲望をかなえようと前に進み始めたと解く。

 「人間の中にいる、もっと自由なもう一人の自分」。それを開放しあって初めて、真の理解を夫婦が得られることになるのだとしたら、やっぱり結婚には、相当な覚悟が必要だ。

 妻が小さくなってしまう理由が、篭の鳥の生活に不満を持っていた自分の欲望が、歪んだ形で発露したものなのかは解らない。また、夫が探し訪ねる人形作家と陶芸家の夫婦のキャラクターも、山師なのか救世主なのかを断定せずに、曖昧なままの存在で終わらせてて、名探偵の解決編に慣れた目には、欲求不満ばかりが残った。だがそれでも、全編に漂う現実の不在感が、建て前だとか、見栄だとかに縛られた社会を映しているような気がして、たまらない思いに胸を付かれた。

 抑圧され、息苦しさを感じる社会の中で、自分を開放するきっかけを探している。誰かに背中を押して欲しいと思っている。しかしピピネラは、自分自身の中にいて、自分自身にしか開放できないものなのだ。

 勇気を持って生きよう。

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