女盗賊プーラン
Moi,Phoolun Devi

 「日本の常識は世界の非常識」などと言って、日本の特殊性を喧伝していた評論家がいたが、そんな「非常識な常識」の中で生きている日本人にとって、世界の「常識」の方が逆に「非常識」に思えることも少なからずある。もちろん、だからと言って「世界の方がおかしいんだ」などと反論するつもりは毛頭ない。ところ変われば「常識」だって変わるもの。お互いに相手の「非常識」を尊重し合った上で、自らの「常識」との折り合いを付け、改めるべきは改め、改めさせるべきは改めさせるべきなのだろう。

 「女盗賊プーラン」(草思社、武者圭子訳、上下各1648円)は、「カースト(身分差別)」という、日本人にはもとより西洋人にも想像がつかない「常識」に支配された国を舞台に、そんな「常識」と闘い続けた女性の自伝である。物語の語り部、「マッラ」というカーストが大多数を占める村で「マッラ」として生まれたプーラン・デヴィは、しかし幼い頃から村の人々を縛る「常識」に納得がいかなかった。

 その「常識」によれば、弟を騙して土地を独り占めにした伯父や、土地に入ったから、マンゴーを欲しいとねだったからといって、まだ幼いプーランを打ち据える金持ちたちが罰せられることはない。逆にプーランの方が「非常識」とされ、パージされてしまうのである。11歳で30歳を越えた男と結婚した時もそうだった。「法律」に反して幼いプーランを妻に迎え、肉体的虐待と性的虐待の限りを尽くしたその男が罰せられることはなかく、そんな生活に耐えかねて反抗し、追い出されてしまったプーランの方が、社会を支配する「常識」の中で、「非常識」な振る舞いをする者として、疎んじられ虐げられてしまう。

 それでも頑なに、「常識」に縛られる生き方を拒否し続けたプーランは、彼女を疎んじる勢力が頼んだ盗賊団によってさらわれ、そこでリーダーの男と結婚し、はじめて愛されること、尊敬されることの喜びを知る。だが夫は、カーストで身分的に上位に立つ別の盗賊によって暗殺され、プーランはカーストの理不尽さをまたしても身にしみて感じることになる。そしてプーランは、盗賊団のリーダーとなって、自らを虐げた勢力に対し復讐を開始する。

 11年の投獄生活を経た後、96年に国会議員に当選して政治家となったプーランが、「辱めを受けてきた女たちや、搾取されてきた男たちが、少しでも救済されればと願わずにはいられない」と、はじめてその生い立ちを語ったのが、この「女盗賊プーラン」だ。記されている彼女の虐待につぐ虐待の人生を読めば、異なる「常識」を持つとされる日本人と西洋人も、彼女のそんな人生を許したインド社会の「常識」を、必ずや「非常識」と非難したくなるだろう。

 人間としての尊厳を奪う数々の振る舞いが「常識」として許される社会は、確かに「非常識」な社会なのかもしれない。だが、日本人が「常識」と考えていることでも、世界からは「非常識」とみなされていることがあることを思い出し、プーランをはじめとして、虐げられる人々を多数生み出しているインドという国、そして根底にある「カースト」という制度のすべてを、「非常識」として糾弾することには、慎重にならなくてはいけない。

 その上で、何が「常識」で何が「非常識」なのかを探る時、いみじくもプーランが語った2つの言葉が響いて来る。「人は犯罪と呼ぶかもしれない。だがそれは、わたしに言わせれば正義なのだ」。プーランはそう言って、人を殺し金品を奪う自らの盗賊としての生活を正当化する。だが人を殺すことを「正義」であり「常識」であると見る社会が、今の世界にどれけ存在するのだろうか。プーランにとっての「常識」を「常識」として認めることは難しい。

 そして「わたしは敬意を払ってほしかった。『プーラン・デヴィは人間だ』と、言って欲しかった。ほかの人たちが、当たり前のように言ってもらっていたように」という言葉。すべての人が相手に敬意を払って人間として扱い、すべての人が相手から敬意を払われ人間として扱ってもらえる社会を、世界のほとんどが「常識」にしたいと願っている。

 社会の数だけ、国の数だけ存在する「常識」の共通項を見つけだし、普遍化させる試みなどそうそう容易には出来ないだろうし、出来ないからこそ今なお「身分制度」が、「カースト」が、「宗教対立」が、「民族対立」が世界に存在し続けている。プーラン・デヴィの国会議員としての活動も、さまざまな「常識」が混在することによって起こる摩擦を解消することは難しいだろう。しかしそれでも、彼女の自伝が世界で読まれることを願ってやまない。自身と他者の「常識」を重ね合わせて接点を探り、よりよい「常識」づくりに向けた1歩が、その著作を読んだ個人個人の中で踏み出されるために。


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