踊り場姫コンチェルト

 「普門館」というのが高校野球で言うところの「甲子園」と同じような位置づけとして、中学生や高校生の吹奏楽において重さを持ち、憧れを集め、青春の代名詞として機能していたけれど、そうした感覚も今は過去のものとなりつつあるようだ。

 岬鷺宮による「踊り場姫コンチェルト」(メディアワークス文庫、590円)という、高校の吹奏楽部をテーマにした作品に、「吹奏楽連盟主催『全日本吹奏楽コンクール』で、全国大会出場」を目指す静岡県立伊佐美高校が願っているのが、「なんとかして全国の舞台、名古屋国際会議場センチュリーホールで演奏してみたい」ことだと書いてある。

 2011年3月に起こった東日本大震災を受けて、全国的に高まったホール施設の耐震への関心で、強度不足が指摘された普門館は全日本吹奏楽コンクールの舞台から外れることになった。2012年からは名古屋にあるセンチュリーホールが使われている。それ以後が舞台となった小説に、普門館が出てくるのはやはりおかしいということなのだろう。

 2013年から刊行が始まり、テレビアニメーションにもなった武田綾乃の「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ」の場合は、アニメーションの画面に映る全国大会の会場がセンチュリーホールになっていた。一方で、2008年から刊行されている初野晴の「ハルチカ」シリーズは、2016年に放送されたアニメーションでも普門館もが登場するという。

 「らき☆すた」などで知られる山本寛監督の小説で、2010年刊行の「アインザッツ」で高校生たちが目指す場所も普門館。こういった具合に入り交じっては、作品が発表された時代を判断する指標となっている全国吹奏楽コンクールの舞台に関する描写も、時間が経っていけばだんだんと、センチュリーホールに統一されていくのだろう。

 甲子園のように思いを永遠につなげられる代名詞がない、というのは寂しい話ではあるけれど、重みが付きすぎて、高校野球の“聖地”というレッテルから、そこでの行動のすべてが規定され、伝統化されてしまっている甲子園を見るにつけ、普門館というタームに引きずられ、そこでの立ち居振る舞いが展開に絡められ、舞台が黒いとか、大音量でないと響かないといった逸話が乗って、本来の演奏から離れたものになってしまうのも良くない話。中高生の吹奏楽にかける純粋な思いを描く象徴として、フラットなセンチュリーホールがなっていけば良いのかもしれない。そことていつまで使われるのか分からないけれど。

 とりあえずセンチュリーホールが目指す場所となっている「踊り場姫コンチェルト」。中学時代からトランペットをやっていた主人公の少年、梶浦康規がプリントを忘れて取りに戻った夜の学校で、月光を浴びながら階段の踊り場で踊っている少女を見かけた。まさか幽霊? そういう噂もあったけれど、正体はすぐに分かった。同じ学校の先輩で、音楽を作り吹奏楽部の指揮もする藤野楡だった。

 康規は吹奏楽部の先輩たちから、楡が作った音楽を聞かされ、これは天才だと確信したものの、その指揮ぶりを見て、あまりの酷さに呆然とする。感情の赴くままに勝手なテンポで振り回すから、演奏者が誰も付いてこられない。アップテンポで行くべきところを妙に抑えた演奏にしたり、逆に静かに行くところを速くしたりで、場の雰囲気にまるで合っていない。

 それでも吹奏楽部の先輩たちは、楡の音楽の才能を信じて指揮も任せようとして、そんな彼女の指揮ぶりが少しでも改善するようにと、時計屋に生まれ育ったせいかテンポに厳しく、音楽も感情が乗らず固くなってしまいがちな康規をあてがって“中和”させようとする。

 そうして始まった楡と康規の接触は、DTMによる音楽作りを共に行っていたということで、モノ作りに対する関心の部分で惹かれ合うところがあり、少しの歩み寄りを見せる場面もあった。それでも、自分がやりたい音楽、自分が聞きたい音楽したやろうとしない楡の指揮ぶりは変わらず、コンクールでの県大会突破から地区大会突破、そして全国大会出場を目指す吹奏楽部は、楡を外すかどうかという決断に迫られる。

 どうして楡はそこまで自分だけの心地よさを追求しようとするのか。それが彼女の音楽なのか。たとえ吹奏楽というチームが主体の音楽でも、作り手である個人の意思は認めるべきなのか。そういったことが問われる物語。音楽作りの才能がある人間であり、それを周囲が認める人間なら、その指揮から生まれる音楽も周囲を納得させるものになって不思議はない気がしてならない。にも関わらず、指揮をすると自分勝手になってしまう心理が少しわかりにくい。今、その時の自分というものが音楽にとって重要ということなのだろうか。

 そんな彼女を目覚めさせ、自分にとって心地よいだけではなく、誰かにとって心地よいものが音楽なのだと思わせるためには何が必用か。誰かへの関心か。それは才能への憧憬か。同士的な友情か。もっと突っ込んだ恋情か。そういったドラマが描かれる。もっとも、自分の思いからズレても誰かの思いに沿うようにした音楽が、天才の音楽なのかどうかは迷うところではあるけれど。

 音楽は誰のものなのか、といった問いかけもあって、青春を吹奏楽にかけた高校生たちが音楽に、楽器に取り組んでいく姿に高校生として共感を覚え、大人として懐かしさを覚えつつ今一度の青春を取り戻したいと思う、そんな物語と言えそう。果たして楡と康規と伊佐美高校吹奏楽部はセンチュリーホールに進めたのだろうか。そこには北宇治高校吹奏楽部はいるのだろうか。続きがあったら、そこが知りたい。


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